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果てなき世界へ(Y5)

 「おまえ、あの人に似てる。去年の大河ドラマで腹黒い貴族のボスやってた人おるやん。えーっと、何やっけ・・・・藤原の・・・・藤原の・・・・」
 私はベッドに肘を突き、手で額を支えて考えこんだ。
 「去年の大河って何でしたっけ」
 緩やかなタンクトップ姿の玲は、同じく手で頭を支えて隣に寝そべり、涼しげに微笑んでいる。若いのに、笑うと目尻にキュッと皺が寄る所が何ともチャーミングだ。
 「『平清盛』やん」
 「知らんわ、興味ないもん。矢部さん、なんでそんな渋いとこ行くんですか」
 「藤原頼長!」
 私は大声を張り上げた。しかし、今度は俳優の名前が思い出せない。
 玲はスマートに、枕元から携帯電話を取って、インターネットに接続した。ものの五秒とかからずに、
 「はい。この人ですか?」
 私は液晶画面を覗きこみ、目の前にいる恋人とよく似た、公卿姿の山本耕史の顔を確認した。
 「似てますか?言われたことないです。俺、お歯黒染めてへんし」
 玲は首を傾げて、素っ気なく言う。
 「いや、この役は気持ち悪かったけどな、この俳優は普通に美形やで」
 ここぞとばかりに熱弁を振るおうとしたのだが、玲は本当に、その話題には関心がないらしく、蛇のような腕が私の頭に、首に絡みつき、滑らかな掌が裸の肩や背中を撫で回し、熱い舌が唇を割って入って、貪るように口腔を舐め尽くした。
 「玲、アガペーって何やと思う?」
 玲の肩から顔を上げて、唐突に、脈絡のない問いを投げた。
 演奏が最高潮に達した時のように、喉を反らせ、半眼になって陶酔していた玲は、ぼんやりとした視線を彷徨わせて、普段より一層掠れた声で訊き返す。
 「アガペー?なんか聞いたことありますけど、何でしたっけ。『聖☆おにいさん』に出てきたかな」
 「『神の愛』『真実の愛』『無償の愛』。古代ギリシャ人は、愛を四つに分類したんです。アガペー、エロス、ストルゲー、フィリアの四種類です」
 つい、昔、塾講師や家庭教師をやっていた時の口調になる。とはいえ、これは受け売りで、最近、真実がこういう話に凝っているので、その影響を受けているのだ。
 「ふーん。古代ギリシャの人ってドライやったんですね」
 と玲。こいつ、ギリシャがどこにあるのか知っているのだろうか。私が推薦した本など一冊も読んでいないに違いない。
 「エロスはわかるけど、ストルゲーとフィリアっていうのがわからへん」
 強いて訳せば、前者が「家族愛」で、後者が「友愛」らしい、と説明した。
 「へええ~。なんかわかる気する。愛は愛でも、矢部さんが好き、っていうのと、親父やお母んや兄貴や姉貴が好き、っていうのと、正やんが好き、っていうのと、あと、『恵まれない子供たちに愛の手を』っていうのは全部ちゃうもんなあ。それを全部、『愛』とか『好き』とかいう言葉で一括りにしたら、話めちゃくちゃになるような気がする」
 もの憂げに語った彼の理解は、(多分)驚くほど正確だった。
 結局、その話はそれで終わりで、「アガペーとは何か」という私の問いに対して、どちらも、明確な答えが出せたわけではなかった。しかし、その時の私には、玲の瞳が、――世間一般からすれば特に小柄ではないが――私からすればだいぶ小さなその体が、神秘な光を湛えた広大な銀河そのもののように、果てしなく謎めいて不可思議なものに思われた。
 「玲・・・・正道くんとは・・・・その、何でもないんか?」
 抱きしめて、絶対訊いていそうで実は今まで一度も訊いていなかったことを囁いた。玲も、自分からは何も話さなかった。今の時代は多くがそうなのかも知れないが、玲も正道も、訊かれない限りは何も話さない若者だった。正道が言うように、包み隠さず本心を打ち明けるのは、彼らの場合、自分たちが作った歌の世界においてのみのことなのかも知れない。
 「ちゃいますよ。俺は中学の時からバイやけど、あいつは完全なヘテロですから」
 と、彼はきっぱりと否定した。
 具体的な名前や出典や、いつの時代の話だったかは思い出せないのだが、あるインドの行者の物語が頭に浮かんだ。彼は子供の時から、師匠である仙人と二人暮らしをしていた。ある日、彼の前に美しい女が現れた。彼は一目でその女に恋をして、激しい肉欲に駆られた。
 想像し難いことだが、彼はそれまで、自分と師匠以外の人間を見たことがなかった。それは当然、女性という存在を目にするのも生まれて初めてだったということだ。つまり彼は、恋という感情、古代ギリシャ人がエロスと名付けた感情を知らなかった。ただ側にいるだけでこれほど素晴らしい、魅惑的な感情に浸らせてくれるのだから、きっとこの人も、師匠と同じように神通力のある、徳の高い聖者に違いない。それが彼の、大いなる誤解だった。
 「ブルマのこと初めて見た悟空みたいやなあ」
 ひたむきな目で私の顔をじっと見て、真剣に耳を傾けていた玲は、考え深そうに言った。言わずと知れた、「ドラゴンボール」の冒頭だ。ただ、あの時の悟空は小さすぎて、女性の性的魅力というものがまだ理解できなかった。誘惑されても、ブルマのお尻を触りたいとは思わなかったのである。
 「で?その話の結末は?その女は何者なんですか?その行者を堕落させようと悪魔が差し向けたとか、そういうの?」
 「いや、忘れた。その部分だけがあんまり印象的やったから」
 「なーんや」
 玲はつまらなさそうに溜め息をついたが、さっきのように、インターネットで調べようとまでは思わないようだった。
 「不思議や。不思議やな」
 と私は呟く。私はその行者のように、正道のように、また、男性ならば大多数がそうであるように、美しい女にはエロスを抱かない。玲のようなかわいい男の子だけが、私のエロスの対象なのだ。それこそ、神通力にかけられたように、その虜となる。そして、玲は両性に。
 私も玲も正道も、他の誰も、そのことを自分で選択した覚えはない筈なのだ。
 生物の生きる目的が子孫を残すことであるなら、なぜ私のような個体が存在するのだろうか。玲はまだわかるが、私は・・・・。
 「深く考えない方がいいですよ、矢部さん。突きつめて考え出すと、『俺って何なん?』『なんで俺は俺なん?』『なんで人間はいるの?』ってとこまで行ってしまいますから。ほら、子供の時、親にそういうこと訊きませんでした?」
 桜がほころびるようにふわりと笑って、こちらの頭を胸に掻き抱いて撫でさすってくれる。私は玲のタンクトップの裾を咥え、首元までたくし上げる。
 「じゃ、なんで君のおっぱいはこんなやらしいピンク色なん?」
 固くなった乳首を指先で摘まんで擦り、もう片方を軽く噛んでチュッ、と吸うと、いつも愛らしいメロディを紡ぎ出す玲の濡れた唇から切なそうな喘ぎが洩れ、その手が私の手を掴んで下腹へと導く。
 ジーンズと下着を脱がせ、飢えた犬のように、玲の猛り立った部分にしゃぶりついた。
 「矢部さん、俺・・・・家がめっちゃ貧乏やから、はぁ・・・・子供の時よう考えましたよ。あっ、ああっ・・・・いつか、金持ちとか貧乏とかいうのが・・・・ああ・・・・なくなって、みんながいつもだいたい・・・・おんなじぐらいのお金を持ってるように、ううっ、ならへんかなって。そしたら・・・・みんなもっとリラックスして生きていけるし、戦争かってなくなるん違うかなって。あっ、あん、あんっ、気持ちいいっ」
 そんなに頭を抱えこんで引きつけられて腰を激しく上下されたら返事できないんだが、というか、フェラしたりされたりしながらしたいような話じゃないんだが、と思いつつ、頃合いを見て答える。
 「そしたら、貨幣自体が要らんようになると思わへんか?」
 「ううっ、そういえばそうですね。ああ・・・・そこの裏スジの所、もっとやって下さい」
 玲の求める通りにしながら、自分の唾液やら彼の先走りやらが混じった液体を指先に絡め、後ろの秘めやかな部分に繊細に塗りこめた。
 「誰でも子供の時は、一遍はそういうことを考えるんやな。みんな、子供の時は共産主義者なんや」
 言うなり、身を起こし、一息に貫いた。玲のしなやかな体が稲妻に打たれたように跳ね躍り、私の律動に合わせて軽やかに弾む。ステージの上で、奏でる喜びに打ち震えながら熱い思いを弾き鳴らし、歌い上げる時のように。二頭の強大な猫に牽かせた戦車に乗って虹の橋を渡る、北欧神話の性愛の女神フレイヤのように。
 「・・・・玲っ!」
 恋人の頭を掴んで引き寄せ、溜め息と共に果てた。落とした照明の中で、玲の金髪が、将校の胸を飾る勲章に付いた房飾りのように煌めいた。

 「それ801板に書いてええの?」
 羽ペンを構えるジェフリー・チョーサーよろしく、真実が上目遣いで問う。
 「あかん言うても書くにゃろ。っておい、どこ行くねん」
 「川東くんとデート、じゃなくて、カンパ回り」
 虹色のジャケットにパンダの形のリュックサック、という、一遍見たら忘れないような出で立ちの友人は、彼女の人生に対する態度そのもののような軽さでひょい、と立ち上がった。
 私がいつも首を屈めないと通れない、事務所の低い出入り口を出て行きしなに、真実はくるりと振り向いた。
 「最近、2ちゃんのもてない女板でコテハンになってん。あんたの付けた、あの名前やで。よかったら見たって」
 それだけ言うと、喧しい音を立てる古い金属製の階段を、「船井の歌って踊る赤い弾丸」の異名の如く、電光石火の勢いで駆け下りて行ったので、
 「はあ?嫌や。おまえのあの独善そのものの文章、大嫌いやわ」
 という私の毒づきは、もしかしたら聞かなかったかも知れない。

Fin.


 

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