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果てなき世界へ(Y1)

 「矢部さん、どっちどっち?」
 突然、鼻先ににゅっと突き出された二つの握り拳が、私を現実に引き戻した。琴引浜の砂の上に立って、いつもの如く、手持ち無沙汰に煙草を燻らせながらもの思いに耽っていた私は、面喰らって、悪戯っぽく瞳を輝かせてこっちを見上げる若い恋人の無邪気な笑顔を見返した。
 「こっち」
 と、イスラム教徒が不浄の手とした方を握る。
 「ざーんねん、外れ」
 玲(れい)はペロッと舌を出して、同時に両手を開いてみせた。箸やペンを持つ方、ピックを持って弦を掻き鳴らす方、そして、ベッドで私を愛撫する方の掌に、薄紫に光る小さな貝殻が載っていた。
 「やっぱ左が好きなんやなあ、矢部さんて。職業病ですか?」
 「咄嗟にそんなジョークが出るようになるほど、いろんなこと勉強してるんやな」
 「あはは。でも入党はしないですから」
 さらりと言って、波打ち際に歩き出す。靴と靴下を脱ぎ、ジーンズを捲り上げる。今日は暑いほどの陽気だ。燦々と降り注ぐ陽光に、玲の金髪と素足の白さが眩しい。ひたひたと打ち寄せる春の波に両足を浸して、振り返る。
 「矢部さんも来たら?気持ちいいですよ」
 「いや、俺はええ」
 まだ、腰が冷える、と尻込みするほどの年でもないが、一緒に海に浸かって大はしゃぎ、という年でもない。外見など主観的事実としても、希望的観測を含んだ客観的事実としても、中年とかオジサンとかいう年ではなく、どちらかといえばまだ青年とか兄ちゃんとか呼ばれる部類に入るだろうが・・・・という、微妙な年頃。
 玲よりは十歳年上だ。玲は昭和のドン詰まりもドン詰まり、六十三年十二月二十某日の辰年生まれで、私は午年生まれである。左翼思想の持ち主である私が元号を使う時はこんな時くらいしかないのだ。ついでに、多くの左翼思想家がそうであるように、かなり極端な無神論者なので、本当は干支もあまり好きではない。
 「海って広いなあ」
 玲は、ステージの上にいる時のように、少し芝居がかった調子で、顔の前に手をかざして水平線の彼方を見る。遠く、一隻の船影が白い波を蹴立てて、かなりの速度で移動して行く。
 「Get over the horizon Go beyond the limit」やな。口には出さなかったが、彼の代表曲「果てなき世界へ」の一節を心にそっと呟いた。


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