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白珠の露

>PLAY ピッ ◇⊂(・∀・ )ジサクジエンガ オオクリシマース!
逃避行モノ。

「これでどうぞ足を清めて下さい。」
そう言って水の桶を差し出した旅籠の女将の手にさえ、その人は脅えた。
だからあとは私が、とそれを受け取り土間にひざまずく。
上がり框に腰を掛けるその人の草鞋を脱がせ、足袋を解き、現れた素足を水につけてやる。
それにほっと吐き出される吐息。それでもその人はすぐにこう告げる。
「私は負われてきたから足など汚れていない。それよりもおまえの方が。」
思慮深い声だった。優しい言葉だった。
それゆえに、記憶を失くした人だった。

通されたのは小さいながらも相部屋ではない個室だった。
「どうぞ少し休んでいて下さい。私は風呂の都合を聞いてきますので。」
荷を解き、立ち上がりかける。そんな自分の腕をその時、その人は取ってきた。
「風呂など後でいい。おまえこそ少し休め。」
言いながらその手が自分の腕を労わるようにさすってくる。
「私が途中で歩けなくなったばかりに。背に負って疲れただろう。」
心底申し訳なさそうに言ってくる、それに自分は首を横に振った。
「これくらいの事。力仕事は慣れておりますから。」
学の無い身だった。日々田畑を耕し、酒も息抜きもそれなりにこなし、ただそれでも
不思議と嫁をもらう事には縁遠い身だった。
その身寄りの無さに目をつけられたのだろうか。
ある日、自分の元に持ち込まれた仕事の依頼。それがこの人との出逢いになった。
伏し目がちに腕をさすり続ける人の、その年の頃は自分より五つ程下だと言っていたか。
節くれのない指。大事に育てられ、守られてきた者の手。
それだけに小指の下の腹、まだうっすらと残る赤黒い痣がいっそ生々しく痛々しい。
それは打ちつけられた跡だった。
大事にされ、守られ、その代償に自由を与えられず、大切な者を奪われ、
そこからの解放を願って自身を捉える柵に何度も強く打ちつけられた跡だった。
本来なら触れる事はおろか、あいまみえる事すら考えられなかった身の上の人。
それでも与えられ、就いた仕事によって間近に聞いたその嘆きは、自分のような者でも
たやすく理解できるほど、悲しく普遍的なものだった。
だから日を追うごとに見ていられなくなった。聞いていられなくなった。
しかしその嘆きはある日突然に止んだ。
声を失くし、表情を失くし、そしてその人は記憶をも失くした。
それはその人の限界であると同時に自分の限界でもあった。
もう耐えられない。
そう思う自分の手にはあの時、その人を捕らえる籠の鍵が握られていた。

「それよりも、このような安宿で申し訳ありません。もう少し町へ出れば、
綺麗な所もあるのでしょうが、今日はここで我慢して下さい。」
あの国を飛び出す時、有り金のすべてを持ち出した。
それまで質素な生活をしていた分、貯まっていたこれだけの額があれば、当面の旅の資金には
困らないはずだった。
しかしそんな自分にその人はまたしても静かに首を振る。
「夜、寝れる場所があればそれだけでいい。」
「?」
「おまえの背に負われて、夜の露は見たくはない。」
意味のわからない言葉だった。
だから困惑の表情のまま眼下の人を見下ろせば、それに気付いたその人がようやくに
その口元をほころばせる。
「伊瀬物語だ。逃げる男と女。世慣れぬ女は夜、男の背に負われながら見た草叢の光の玉を
なんだと問う。しかし男は逃げる事に必死で答えてやれない。その後見つけた小屋で
一夜を明かそうとするが、女を休ませようとしたそこは鬼の棲家で、見張りに立っていた
男は女が上げた悲鳴にも気付く事が出来ず女は鬼に喰われてしまう。朝になって、
大切な人を失ってしまったと気付いた男は、昨夜聞かれた事にちゃんと答えてやればよかった。
あれは草についた露だと答え、そして自分も露のように消えてしまえたらと泣いた。」
「……鬼ですか。」
「そこは作り話だろうが、この話には実話の基礎がある。さらった男は昔の貴族、
さらわれた女は帝の妃となるはずだった姫。想い合う2人は手に手を取って逃げ、
しかし結局は追っ手に捕まり、姫は都に戻される。」
「……………」
「捕まりたくはないな……」
学のある人だった。
記憶を失っても、その素地は残るのか。世間知らずではあっても、物は自分より遥かに多く
知っている人だった。
そんな人がこの時、それまで触れていた自分の腕の中に身を委ねてくる。
「迷惑をかける。でも私はおまえを頼るしかない。」
腕にくっと立てられ、すがってくる指先の力。
頼られている、それは本来ならば考えられない事だった。
記憶が戻れば、自分が誰で、相手が誰か、理解をすればけしてもう二度と起こりえない事。
それがわかるから、この瞬間自分はその人を抱き締めていた。
逃げたかった。追っ手から。そしてこの人の記憶から。そして、
「私ならすべて答えます。」
そう告げる。
「知っている事は少ないかもしれませんが、それでも答えられる事はすべて。」
悲鳴でも嘆きでもない、この人の言葉を何一つ聞き逃しはしない。
抱く腕に力がこもる。するとそれにその人は少しだけ笑ったようだった。
「ならば、私は喰われてもいいよ。」
「えっ?」
「鬼ではなく、おまえになら喰われてもいいよ。」
それ以外に、返せるものが何もない。
そう言うこの人の言葉に滲む過去には、いったい何が潜んでいるのか。
気にはなる。しかし知るのは怖くて、自分はまた無言のままその人を抱き締め続ける。

白珠か何ぞと人の問ひし時 つゆと答へて消えなましものを

嘆きの歌を口にせずとも良いように。
この人の望むまま海へ行こう。山へ行こう。
世は今、新しく生まれ変わり、そして乱れている。
その混乱の中縫うように歩き続ければ、たとえいつか記憶が戻ったとしても、
この人が一人生きていける安住の地を、自分はこの旅の果てに見つけてやる事が出来るかもしれなかった。

□ STOP ピッ ◇⊂(・∀・ )イジョウ、ジサクジエンデシタ!
元ネタらしきものはあるので、わかる人はこっそり楽しんでもらえれば。
時代物好きだ。


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