傷痕
更新日: 2011-04-25 (月) 08:39:19
44-414の続編
俺が悠樹と暮らすようになって二ヶ月。
凛区始まって以来の危機も去り、皆で盛大に航平さんを送り出し、店もすっかり落ち着いた。
俺達はまずまず平和に暮らしている。
──予想外の形ではあるものの。
サリナさんに謝罪に行った次の休みの日、俺は悠樹の部屋に引っ越した。
俺よりあいつの部屋の方が広いし綺麗だからと言われたけど、確かに俺の1DKとこの部屋では雲泥の差と言える。
親戚から借りているという部屋は3LDKと広い。ただ、綺麗と言うのも違うだろ、と心の中で突っ込んだ。部屋はがらんとしていた。すっきりしていると言えば聞こえは良いが、物が極端に少なくて殺風景だ。
玄関を入ってすぐ左の洋室には、シルバーパイプのハンガーラックが三つ無造作に並び、スーツやシャツがクリーニングの袋に入ったまま吊るされ、壁際に置かれたチェストの上にはネクタイや小物が乱雑に置かれている。どうやら衣裳部屋らしい。
その隣に、同じくらいの洋室が丸々一つ、何も置いてない状態で俺を待っていた。
とりあえず俺の荷物はすんなりとそこに納まった。俺の為に空けたんじゃない事は一目で分かった。他の部屋に物が移動した形跡が全く無いからだ。
玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の先のリビングには大型テレビと二人がけの革張りの黒いソファ、小さいサイドテーブル。
リビングに続く和室には焦げ茶色の絨毯を敷き詰め、そこにクイーンサイズのベッドと背の高いスタンドライト、小さなチェストがあるだけだ。
「お前、ソファでメシ食ってんの?」
「んー、家であんま食べない」
「今まで彼女とかどうしてたんだよ?確かいただろ?」
「呼んだ事無い。いつも外か相手の家」
キッチンを見ても鍋一つ無い。唯一、電気式のケトルだけが存在を主張していた。
ありえねー。
俺の部屋は確かに散らかってたけど、こんだけ物が無かったらそりゃ綺麗だよな。
「おはよ。いい匂い……冬麻ってマメだよね」
感心したような呆れたような寝ぼけ声が投げかけられる。
お前がしねーからだろ。
こっちだってヤロー相手に朝から、つーか俺らが起きるのは昼過ぎだけど、トーストに目玉焼き、カリカリベーコン、サラダにスープなんて新婚チックなメシ作るとは思ってもみなかった。マジで。
でも俺が作らないと、悠樹はほとんど何も食わない。昼過ぎに起きて水を飲み、店に行ってからオープンまでの間にゼリー飲料を流し込むのが習慣で、固形物を口にすれば上出来といった具合だ。店が終わってみんなでメシに行く時くらいしか、物を食わない。
「なんで食わないんだよ?」
「だってメンドーだもん」
「メンドーじゃねえよ。体に悪いだろ」
「別にいいじゃん、生きてるし」
こんな調子だ。
かと言って食う事自体が嫌いな訳でもない。旨い店にも詳しいし、いざ食事に行くと、細いくせによく食う。でも一人だとてんで駄目。料理も出来ない。買うのも面倒だと言う。隣のビルの一階がコンビニという恵まれた立地条件なのに、飲み物を買うくらいしか使っていないらしい。俺が引っ越してきた時、冷蔵庫にはアルコールと水とゼリー飲料しかなかった。
こんな奴放っておけるか?
ほとんど飲まず食わずで客相手に酒飲んで、今までよく倒れなかったものだと感心さえした。必然的に俺が飯を作る事になる。
ま、飯作るのは得意だし好きだからいいんだけどな。
意外と手のかかる悠樹だけど、新しく買った二人用のダイニングテーブルを挟んで向かい合っていると、これでいいかと思う。明るい陽射しの中で子供のように笑う顔も、眩しそうに細めた目も、寝癖であちこちにはねている髪も、何もかも可愛く見えるのは惚れた欲目だとしても、こんなにくつろいだ顔を見せるなんて反則だ。なんでもしてやりたくなる。
特に──ひどくうなされていた夜が明けた後には。
店から帰宅すると、悠樹は毎晩誘ってくる。体力の限界までヤッたらそのまま電池が切れたようにすぐに眠りに落ちて行く。だが、安らかな眠りは長くは続かない。じきに寝返りを始めたかと思うと、苦しげな顔に脂汗を浮かべうなされる。眉間に刻まれた皺が悪夢の深さを物語っている。
「…う……ん…い、やだ……あぁっ!」
最後はいつも激しく何かに抗ってもがき、悲鳴のような声と共に飛び起きる。はあはあと肩で荒い息をつき、そっと俺の様子を伺っているのが気配で分かる。最初の日は驚いて、どんな夢なのか問い詰めた。だが悠樹は忘れたと言い張り、決して語らなかった。
予想はついた。容易く。──潤の夢なのだろう。
問い詰めた時の悠樹の昏い目を見た俺は、次の日から気付かない振りをすることにした。悠樹は荒い息のままベッドを降り、汗でべったりと貼りついたパジャマを苛立たしげに脱ぎながら、部屋を出て行く。向う先はバスルームだ。静かに様子を見に行くと、出しっ放しのシャワーの下でずっと体をこすっているのが曇硝子の扉越しに分かった。
どんな思いで、何を落とそうとしているのか。
決して短いとは言えない時間が過ぎた後、そっとベッドに戻ってくる。俺を起こさないように端に入り、背中を向けて縮こまる。俺はわざと寝返りを打ち悠樹の方に体を寄せ、無意識を装って抱き寄せる。最初の日は、その体の冷たさに驚いた。水を浴びていたのだ。悪夢を追い払えない自分の無力を噛みしめながら、寒さに震える体をしっかりと抱え込む。冷え切った体にゆっくりと熱が戻り、緩やかに二度目の眠りに入るまで絶対に離さない。悠樹に訪れる全ての眠りが安らかなものになるようにと切ない程の願いを込めて抱きしめる。
毎夜繰り返す俺達の儀式だ。
朝食の後、いつものようにソファに座ってコーヒーを飲みながら悠樹に声をかけた。
「休みだからどっか行くか?」
問いかける言葉を無視して、悠樹が唇を重ねてくる。
「おい、コーヒーこぼれたら火傷するぞ」
と言うと、俺のカップを取り上げてサイドテーブルに置き、また続きを始める。預けてくる体を軽く支え、舌を絡めると嬉しそうに小さく吐息を漏らすのが可愛い。薄く目を開けて至近距離の顔を見ると、目の下の翳が今日は一段と濃い。
昨日のうなされ方がいつもよりもひどかったせいだろうか。
俺と暮らすようになって以前より飯を食うようになったせいか、顔色は少し良くなった。太らない体質らしく体型は全く変わってないが、ちょっとは健康そうになったと思う。
でも──悪夢が訪れない夜はまだ一度も無い。
あの事があってから俺がここに来るまで、一人であんな夜を過ごしてきたのか。
あんな目に遭ったのがどうしてお前だったんだろう。
俺達がいがみあっていたのが原因ならば、どうして同じだけの痛みを与えてくれなかったのか。
お前だけが傷を受け、苦しんでいるのが堪らなく辛い。
傷を抱えてもがく悠樹を一番傍で見つめているのが俺に科せられた罰なのかもしれない。
ぼんやりと思いを巡らせているといきなり唇を噛まれた。
「つっ、何すんだよ」
「なんか他の事考えてただろ。ヘタクソ」
「ヘタクソって何だよ!」
「ヘタクソはヘタクソだろっ!言われるのが嫌なら上の空のキスなんかすんな。俺といる時は俺の事だけ考えろ」
「お前の事考えてたんだよっ」
「どんな事だよ?言ってみろよ」
「それは……その、起きてすぐになんでもよく食うよなーとか、痩せの大食いだよなーとか」
「悪かったなっ」
しまった。
完全に拗ねて背中を向けてしまった。でもこっちもこれで引き下がるわけにはいかない。上の空だという悠樹の
指摘が図星だったのをごまかした後ろめたさから、却って後に引けない気持ちになる。
「おい、悠樹」
「……」
「取り消せよ、ヘタクソって言葉」
「なんで?」
向こうを向いたままつんけんと答える背中に言う。
「なんでって……それ言われたらショックだからに決まってんだろ」
「じゃあ下手じゃないって証拠見せてみろよ。今すぐ」
ぐいっと顎をそびやかし、横目で俺を挑発する。
「見せてやるよ」
後頭部を抑えて噛み付くように荒々しく唇を重ね、舌で口中を探り柔らかい舌を捕らえて吸い上げる。舌で歯の内側をなぞると悠樹の体からくたりと力が抜ける。息もろくにつかせない程激しく、長い時間をかけてキスをした。甘く柔らかい感触の唇を名残惜しく離すと、悠樹の目はすっかり潤んでいる。完全にスイッチが入った顔だ。
「誰が下手だって?」
「…冬麻」
畜生。コイツ、やっぱ可愛くない。
「このヤロー、思い知らせてやる」
「出来るもんならやってみろよ」
赤く染まった目元で上目遣いに睨んでくる顔が色っぽくてぞくぞくする。
その目つきがどんなにそそるか知らないだろ、お前。
ソファに押し倒し、もう一度キスしながら上半身に手を這わせゆっくりと撫でる。それだけでうねるように反応し始めたのを確認して、親指の腹で胸の中心を撫でると途端に甘い声が漏れ出す。小さく固く尖ってきたものをきゅっと強く摘まむと背中が弓なりにしなる。もう片方の手を背中に回し、背骨に沿って上へ滑らせると
「んっ……あ、あぁっ…」
荒い息と共に声が止まらなくなる。両手で俺のシャツを握りしめ、固く目を閉じてる。パジャマを捲り上げて胸の尖った物をねっとりと舐めた。
「ぁあんっ」
普段は可愛くない事ばかり言うくせに、唇を押し当てると切ない良い声で啼く。悠樹の体は俺が今までに寝たどの女よりも敏感で貪欲だ。
もっと感じろよ。俺を。
俺がどんなにお前を想っているかを。
何もかも忘れるくらい感じさせて、悠樹を俺で上書きしてしまいたい。
苦い記憶もつらい経験も忘れてしまえる程に。
胸を弄びながら片手で全部脱がせ、うっすらと筋肉が浮いている平たい腹から更に下に手を伸ばすと、そこはもう勃ち上がっていた。手の中に収めるとぐっと熱と硬さが増す。先端からあふれている透明な蜜をすくい、くびれに塗りつけると悠樹の腰が揺れだす。強張ったものを手で柔らかくいじりながら、膝の裏から腿にかけて唇を滑らせ時折強く吸いつくと、小刻みに震えて快感を伝えてくる。赤い痕を残すと、その度に己の昂ぶりを俺の手にすりつ
けてもっととねだった。徐々に根元に近づくにつれ期待で体を強張らせるのを、わざと焦らして下腹部に移る。
いつまでも続くゆるい刺激に我慢できず、焦れた悠樹が訴えてきた。
「とうま、早く……」
「ん?何を」
さっきのヘタクソ呼ばわりのお返しとばかりにしらばっくれて訊き返しながら、指でくりくりと先端を撫で回す。
「んんっ…はぁ……焦らすの、仕返しかよ……早く、舐めろよ…」
涙目になっているのを見て満足した俺が、根元をしごきながら先端の口を舌で抉ると「あぁ……」と吐息交じり
の声を漏らす。くびれに丹念に舌を這わせると腰の揺れが大きくなる。
「…ん……とう、ま……あっ」
下から上まで隈なく舌を走らせ、先端に唇をかぶせる。じゅぶりと音を立ててゆっくり上下させると、悠樹の体が跳ね上がる。そう簡単にイかせてはやらない。べったりと舌を押し当てて軽く上下させる。刺激しすぎないよう注意して、じわじわと高めていく。溢れ出た唾液を指にたっぷりと絡ませ、後ろに塗りつけた。もうすっかり慣れたそこは、浅く埋め込んだ指を熱く迎え入れる。ほぐすように動かすと奥へ誘い込むようにうねうねと応え、絡み付いてくる。指の出し入れと唇のストロークを同時にすると、ゆっくりしたペースにも係わらず感じやすい悠樹はあっけなく追い詰められていく。
「あっ、あん……んっ…とうま……やだぁっ」
悲鳴のような訴えで咥えていたものを離すと、
「もう、いいだろ……はやく、入れ、ろよ…」
荒い息のまま泣きそうな顔で言う。上から目線の可愛くない台詞を、すがるような目で言う悠樹が可愛くて愛しくてしょうがない。
「なんで?気持ちいいんだろ?まだいいじゃん」
余裕のある口調で言うこっちも、もう硬く張り詰めたモノが疼いて仕方が無いのを隠すので精一杯だ。
「一人じゃヤなんだよっ……イくのは一緒がいいって気付けよ、馬鹿」
右の目尻にぽつんと涙が一粒零れる。子供みたいな口調に、一瞬で我慢がきかなくなった。
「了解」
涙を吸い取って額に口付け、一度体を離して服を脱ぎベッドサイドからローションを取ってきた。手の平にたっぷりと出したローションを自分のモノに塗りつけ、ソファに座った俺の上に悠樹を跨らせる。ふにゃふにゃの体を支えてやると、ゆっくりと腰を落としてくる。
「んっ……ぁ…」
目を閉じたまま俺の肩につかまり、少し苦しげに眉根を寄せる。くちゅっと音を立てて先端が飲み込まれると、一気に突き上げたくなる衝動に襲われ下腹に力を入れてこらえる。全てが入りきると、悠樹がゆっくりと目を開けて俺の目を見た。
「…冬麻、なんか苦しそうな顔」
「お前もだよ。ここにしわが寄ってる」
眉間を軽く突くと何故か嬉しそうに笑った。
「気持ちいいことしてるのに二人とも苦しそうなんだ」
「気持ちいいか?」
「うん…冬麻が俺の中にいる」
いつもの減らず口が帰ってくると思っていたのに、思いがけない素直な返事に愛しさがこみ上げる。頭を引き寄せて唇を重ねると、舌の動きに合わせて悠樹の腰が動き出した。中の熱い肉が包み込み、絡みつき、締め付ける。
最高だ。
腰をしっかりと掴み下から突き上げると、更に蠢きが激しくなる。二人とも次第に息が荒くなり、キスをしているのが苦しくなってきた。喉元から胸に唇を滑らせ、滑らかな肌にきつく吸い付く。赤く咲いた華に気付き、悠樹が口を尖らせる。
「…ん……そんな、とこ、付けたら…店で着替え、られ、ない…だろ」
「いいだろ…お前の体、他の奴に見せてたまるか…」
「ヤキモチ、かよ……俺に…興味、ある、奴なんか……いないよ…ぁ…」
「るせー…それでも嫌なんだよ」
背中に手を回ししっかりと支えて突き上げる角度を変えると、悠樹の体が止まらなくなった。
「あぅっ…んっ……そこ、いい……」
俺の胸に手をついて上半身を軽くそらし、夢中で快感を貪っている。黒い髪が額に散らばって乱れているのをかき上げてやった。苦痛に耐えるような顔がなまめかしい。南側の大きな窓からの日差しを浴びて、上気した肌が汗ばんで艶を帯びてしっとりと光っている。
「悠樹……綺麗だな」
ひとりでに言葉がこぼれ出た。
「え……?」
驚いた顔で悠樹が目を開けたのと同時に、悠樹の中がきゅうっと俺を締め付けた。
くっ、それヤバイ。
タガが外れたように一気に激しく突き上げた。音を響かせながら腰を叩きつける。腹に当たる悠樹のモノを握り、同時に動かす。
「とう、ま……とうまぁっ」
俺の名前を呼びながら手の中で悠樹がイくのに合わせて悠樹の中に放ち、びくんびくんと震える体を抱きしめた。
荒い息が落ち着いてから二人でバスルームに行く。普段から朝食兼昼食の後に風呂に入るから、起きるとすぐに沸かしてある。夜は酒が入っているからシャワーだけだ。頭からシャワーを浴びている悠樹を湯船の中から鑑賞する。細いけれど必要な筋肉がついて引き締まった体に、水流がまとわりついて落ちていく。
やっぱり綺麗だ。
湯船に入ったら抱きしめてもう一度キスしようと待ち構えていたら、キュッとシャワーを止めてそのまま出て行った。
「おい、つからねーのか?」
「ん、いい」
妙に低いトーンで、振り返りもせずに答える。
寝不足でヤッて疲れたのか?
いや、そんな感じでもない。
気になって急いで上がる。タオルで拭いた俺の髪は短かくてドライヤーの必要も無い。服を着てリビングに行くと、悠樹の姿が見えない。と思ったらベランダの前の床に座っていた。折り曲げた脚を両腕で抱え込み、膝の上に顎を載せ、ぼんやりとした様子で空を見ている。髪は拭いた様子がなくTシャツの首周りがぐっしょりと濡れていた。
しょーがねーなぁ。
洗面所に戻りタオルを手に戻る。後ろから頭に被せ、がしがしと拭く。
「風邪ひくから髪くらい拭けよ。お前去年の冬もたまに熱出して店休んでただろ。これから寒くなるんだから」
黙って為すがままの悠樹に説教をしても、聞いているのか聞いていないのか分からない。
俺、おかんみてー。
ふいにそんなことを思いくつくつと笑いがこみ上げてきた時、悠樹が何か言った。
「ん?聞こえねー」
「……じゃない」
「ちっせーよ、声が。もう一回」
「俺は、綺麗じゃ、ない」
短く切った言葉を叩きつけるように悠樹が言った。その言葉に驚いてタオルを外しても俯いたままだ。濡れているせいでいつもよりくるくると強く巻いている髪が目にかぶさって、どんな顔をしているのかよく見えない。
「悠樹」
呼びかけても頑なに顔を上げない。隣に腰を下ろし髪をかき上げようと手を伸ばすと、悠樹の体がびくっと震えた。
「わりー。見せたくないなら見ねーよ」
小さな声で言って、代わりにそっと抱きしめた。
「俺、汚いんだ」
俺の胸に顔を埋め、体を固く強張らせたまま絞り出すように言う。その声の悲痛な響きに胸が痛い。
お前ずっとそんな風に思っていたのか。
誰よりも誇り高いお前が。
口に出すのがどんなに辛いことだろう。
それでも口にせずにはいられなかったお前を、誰が汚いと言えるのか。
「バーカ。お前は綺麗だ。俺が言うんだから間違いはねーんだよ」
無理に軽く言った俺の言葉に、ふるふると頭が揺れる。
「汚い。こんな汚い体を冬麻に抱かせて……ごめん。俺、最低だ」
繰り返し自問する問いがまた心に湧いてくる。
どうしてお前だったんだろう。
ことさら自分を追い詰めるような、自分に厳しいお前に何故こんな事が降りかかってきたんだろう。
薬を盛られて朦朧としているところをいいように弄ばれた事よりも、望まない行為で感じてしまった自分の体が
許せない。航平さんにそう語るのを聞いた。
どちらにもお前には何の責任も無いのに。
──あの時。
もしも悠樹が先に指名されて、エミが俺に指名を変えたとしても何の騒ぎにもならなかっただろう。これは断言できる。俺みたいに後先考えず感情をぶちまける事は、悠樹は絶対にしない。心の中で歯軋りすることはあっても、指名変えの事実を表面上は涼しげに笑って受け止め、皆がギスギスした雰囲気になる事は無かっただろう。
俺がカッとなりやすい性格で、悠樹にライバル心を燃やしていた事をあっさりと見抜かれたからこそ、あの罠の獲物に悠樹が選ばれた。
だから誰かのせいだとしたら俺のせいだ。でもこれを悠樹に言うわけにはいかない。俺が負い目を感じていると知れば益々自分を責めるだろう。「俺のせいだ」と謝ったところで楽になるのは俺だけだ。
お前の荷物を増やしたいんじゃない。簡単に「忘れてしまえ」なんて言うつもりも無い。そんな事出来っこないのは分かってる。
だからせめて。
お前の苦しみを一緒に抱えたいんだ。
「悠樹」
両腕に力を込めて強く抱きしめる。
「俺はお前を抱かされてるんじゃねーぞ。俺は俺の意志でここにいて、お前が愛おしいから抱くんだ。……正直に言えばな、お前が汚れていようがいまいが俺にはどうでもいい。どんなお前でも、お前がいればいいんだ。お前が毎日寝ぼけながら起きてきて、俺の作った飯食って、お前が俺の服選んで、二人で出勤して、店で皆で馬鹿な事言いながら働いて、同じ部屋に帰ってきて、同じベッドで寝る。俺はすっげー贅沢な毎日だと思ってるよ。お前がお前を汚いと思ってても、俺はお前が綺麗だと思ってるし綺麗だって知ってる」
「でも俺はっ」
両腕で俺の胸を押しのけ、体を引き離して叫ぶように悠樹が言う。
「俺は冬麻を利用してるんだ……。一人でいると辛い事や嫌な事ばかり考えてしまって、でも冬麻といると忘れられて。だから一緒に住もうって言ってくれた時はすごく嬉しかった。でもっ、冬麻が優しいのに付け込んで俺が楽になる為に利用してるって認めたくなくて、見ないようにしてた。ずっと。…………こんな俺が綺麗なんて言ってもらう資格無いだろ?」
悠樹の瞳から涙が溢れた。
はらはらはらはらと。静かに。
その姿がやっぱり綺麗だと言ってもお前は怒るだろうか。
お前の姿形なんかじゃない。
その誇り高い魂が綺麗なんだ。
「悠樹、俺といると楽なのか?」
恐々と頷く。
「そっか、なら良かった。お前、言葉の使い方間違ってる。利用してるんじゃなくて、お前は俺に甘えてるだけだ」
「あまえ、てる…」
思いがけないように悠樹が目を瞠った。
「そう。一緒に暮らしてる恋人に甘えるのに罪悪感持ってんじゃねーよ。俺に甘えなくて誰に甘えるんだよ。
お前を甘やかすのは俺の特権なんだぞ。堂々と甘えろ」
「で、でも……」
「あー、もういちいち面倒くせーな、お前は」
離れてしまった体を荒っぽく引き寄せ、まだ泣いている悠樹の顔を俺のTシャツに埋めさせた。
「一緒に居ると嫌な事が忘れられる、なんてすごい殺し文句言っておいて自覚がねーってのもお前らしいかもな。いいか、悠樹。俺はお前に惚れてるんだ。お前が出て行けって言うまで傍にいる。俺の大事な悠樹の悪口は、いくら本人でも許さない。覚えとけよ」
静かな涙が段々はげしくなり、腕の中でしゃくりあげる背中をそっと撫でた。
悠樹をもう一度しっかりと抱き寄せた。
今なら言ってもいいか。
ずっと一人で計画していた事を、緊張しながら口に出す。
「俺、もう少ししたら調理師免許取りに行く。お前はマネージャーに習ってもっと酒に詳しくなれよ。金が貯まったら店を開く。飯がうまいバーがいいな。お前が好きなダーツも置こうぜ。店が終わったらあいつらも来れるように、遅くまで開けておかないとな」
悠樹が顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃだ。
こんな顔、他の誰にも見せてやるもんか。
こいつはずっと俺の傍にいるんだ。
胸の中で静かに、だが固く決心する。
「ずっと考えてたんだ。俺はお前と一緒に生きていく。いいな?」
「冬麻……とう、ま…」
しゃくりあげながら何度もうなづく悠樹をもう一度しっかりと抱き寄せた。
その夜、やはり悠樹は熱を出した。
おじやが食べたい。
スポーツドリンク飲みたい。
苺もいる。
子供のようなリクエストを次々投げてくるくせに、俺が買い物に行こうとすると却下する。
結局うとうとした隙を狙ってコンビニに走った。
目が覚めて、俺が買い物に出たと知ると少し不機嫌になったけど、おとなしくおじやを食べ横になった。
解熱剤は嫌いだと言うので使わなかった。
額に保冷シートを貼りつけ、俺にしっかりと抱きついたままの眠りは驚くほど安らかだった。一度もうなされる事も無く、時折目を覚ましては俺の存在を確認するかのようにぎゅっとしがみついてはまた眠りに落ちた。
熱が更なる悪夢を呼び込むのではないかという俺の心配をよそに、呆気無い程静かに朝が来た。
この日を境に、悠樹が悪夢を見る日がぱったりと無くなった。ごく希に、思い出したように見ることはあっても、冷たいシャワーを浴びることは無い。
マネージャーに習ったカクテルを自宅で練習し、オリジナルレシピを考えては店で仲間に味見させている。なかなか好評らしい。
悠樹。
俺の悠樹。
俺のせいで負ったお前の傷は少しは癒えたのか。
俺たちの絆の証として、その傷痕に口付けて生きよう。
何があってもお前と一緒だ。
神でも仏でもなく、俺はお前に誓う。
永遠(とわ)に共に、と。
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