3103×56
更新日: 2011-05-02 (月) 18:04:55
白色巨大建築物ネタ、今さらでスマソ。
王道だけど、ある意味「何も起こらない」話です。
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聡見は剤然の部屋のドアを軽くノックした。
いつもは文字通り打てば響くように入室を促す声が応えるのに、今日に限って
返事が無い。
ドアの横の「在室」表示をもう一度確認する。短い所用で外しているのだろうか。
一歩下がって廊下を端まで見渡したけれど、あの特徴的な足音が戻って来る
気配は無かった。
出直そうかとも思ったが、助教授時代より少し部屋が広くなっている事に配慮して
先刻よりもう少しだけ強く叩いてみる。
返事の代わりに、きちんと閉まっていなかったらしいドアが内側に開いた。
おっと、とノブを引こうと手を伸ばした聡見の視界に入った応接セットの左端、
椅子の肘掛けから黒髪が覗いている。
「……剤然?」小声で呼びかけながら、聡見は室内に足を踏み入れた。
部屋の主、第一外科のトップに就任したばかりの教授殿がソファにくしゃりと
身体を崩していた。
読みさしの書類を数枚胸に乗せたまま、大の男がゆったりと横になるには
無理が有る長椅子の上で、すーっ、すーっと穏やかな寝息を立てている。
人のこんな深い寝息を聞くのは久しぶりだった。
テーブルの上にも書類はたくさん広げられていた。黄色い付箋がぺたぺたと
貼られ、そのうちのいくつかには「緊急」を示す符丁が書き込まれている。
床にはそれらを記したはずの赤ペンが、いかにも剤然の手から滑り落ちたと
思しき位置に転がっていた。
起こすには忍びないが、起こしてやった方がいいのだろうか。
迷った聡見は書類と一緒に広げられていたスケジュール帳を見やる。今日の
この時間帯には何も記述は無かったが、朝一番でc/ard/iec/tomy、通例通りの
総回診の後に特講ひと枠を挟んでついさっきpneum/onect/omyを終えたばかりだ
という事が分かった。しかも手術は2つとも「P」マーク、すなわち剤然自身が
執刀医だった事を示している。
そして夜にはが/んセンター設立準備関連の会合。
手を伸ばしてページをぱらぱらと繰ってみる。どの日も似たり寄ったりに、
びっしりと予定が書き込まれていた。
以前の彼はよく「助教授なんて教授にこき使われるばっかりじゃないか」と
こぼしていたが、教授になったらなったでひどく忙しい日々を過ごしているらしい。
教授職に伴う仕事が増えた一方、部下に任せられる雑事には限りがあり、何より
剤然には自身の執刀数を減らすつもりが無いからだ。
最近になって多少症例を選ぶような事を口にして聡見の眉をひそめさせたりも
するが、最終的に自分の仕事と判断すれば決して他人任せにはしない男だった。
あれはもう何年前になるだろう。剤然に回した患者の術後の様子を訊きに行くたび、
その手に新しいカルテを持っているような状況がたて続いた事が有った。
難手術直後の彼のもとに2人分の画像を持ち込んだ時にはさすがに気が咎め、
「悪いな」
と聡見が呟くと、剤然は疲れのにじむ頬に磊落な笑みを乗せて
「おお、いくらでも切ってやるぞ持ってこい」
と言ったのだ。
そんな事を言っていいのかい、と聡見が笑うと、剤然はこう続けた。
「君の診断はいつも確かだ。その君が僕の所に持ち込むんだから、僕が切るべき
症例なんだろう」
この上なくあっさりした信頼の言葉が、とても誇らしかったのを覚えている。
実際、教授選のごたごたが始まるまで、剤然は聡見が依頼した患者の執刀を断る
どころか、大学病院の縦割りシステムに逆らうような症例検討でさえ渋ることは
無かったのだ。
――相変わらず働き詰めなんだな。
医者が忙しいのは社会的に見て喜ばしい事ではないだろう。しかし実際問題、
ガ/ンの機序が解明されて予防医療が飛躍的発展でも遂げない限り、罹患する者は
一定の割合で出てくる。故に剤然が忙しいという事は、そのまま手術によって
救われる患者数を上げる事を意味する。だから彼は、限られた時間の中でメスを
ふるい続ける。
剤然の集中力は特筆すべきもので、困難な手技も長時間に及ぶ大手術も、時には
それらを連続で見事にこなしてみせるけれど、実はその華奢な体躯が示す通り
体力が有る方ではなかった。
こんな所で昏々と眠る旧友を見て、今さらのように彼本人の身体が心配になる。
規則正しかった深い寝息が不意に途切れた。んん、と声になるかならないかの
呻きと共に、少し動けばずり落ちてしまいそうな長椅子の上で剤然はもぞもぞと
身じろぎをする。しかし思わず添えようと伸ばした聡見の腕に触れることなく、
彼は器用に寝返りを打って再び身体を落ち着けた。
再開した寝息は先刻より少し浅くなったようだ。
聡見は向かいの椅子に腰を下ろして、こちらに向いた白い顔、長い睫毛を見遣った。
瞼の中で眼球がぴくぴく動いているのが分かる。その滑らかな額の奥で、外科医は
どんな夢を見ているのだろう――
「さ/とみ?」
眠っているとばかり思った相手にいきなり名を呼ばれ、聡見は椅子から転げ落ち
そうなほど驚いた。
「お、起きてたのか!?」
「君の診断は――」
ふたりの言葉がぶつかった後、数秒の沈黙が訪れる。
「……うん?」剤然がゆっくりと目を開けた。その瞼を数回ぱしぱしと瞬かせ、
なおぼんやりと聡見を眺める。「……ああ聡見、来てたのか」
「何だ、やっぱり眠ってたんだな。起こしてすまん、俺の名を呼んだように
聞こえて驚いてしまった」
ばつが悪そうに言い訳する聡見に向かって、剤然は頬に薄い笑みを上せた。
「呼んだかもしれん。なんだか君が居るような気がしたんだ」
んー、と伸びをしながら剤然は身体を起こし、「今何時だ?」と呟いたが、
聡見の答えを期待したわけではないらしい。すぐに自分の腕時計に目を落として
「30分くらい眠ったか」と独りごちた。
そして精密な手技をこなす神の手で自分の顔を覆う。前髪を上げていてさえ、
その華奢な手に隠れてしまう小さな顔だ。指先で眉の中心から外側へ、何度か
瞼の上を擦ってから剤然は面を上げた。聡見を見る目の縁は少し赤くなって
いたが、眼差しははっきりと、いつもの強い光を取り戻していた。
「で、君は何の用だ。……いや、聞くまでもないな」
剤然は、聡見が左手に持ったままだった大きな封筒を期待に満ちた目で見遣った。
「どんな患者だ? 見せてもらおう」
「あ、ああ。43歳の女性で――」
デスクの傍らでふたり並んで見つめるシャーカステンに、剤然はぐっと身を
乗り出す。真剣な瞳、凛とした表情。とても直前まで熟睡していた人間とは
思えない。
「……君の言う通り、間違いないな。外科で引き受けよう。僕が切るよ」
言うなりすっと立っていき、慌ただしくスケジュール帳をめくる。
「14日の朝でいいかい。あ、木曜の午後も何とか入れられそうだ。午後の方が
君は見に来やすいんだったな――」
早口で喋る旧友の横顔を見ながら、自分はただ彼とふたり、永遠にこんな風に
していたいのだ、と聡見は思う。
その願いが叶わないと思い知る、二週間前の事だった。
-了-
□ STOP.
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