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インファナル・アフェア

投下させていただきます。
映画イソファナル・アヘアより、主人公2人。時期は二作目の無/間/序/曲の最後の辺り。
長文ですが、よろしくお願いします。

以下のもの苦手な方はご注意ですたい。
[半生、出血(微量)、暴力(微量)、801チンピラ]

|>PLAY ピッ ◇⊂(・∀・)ジサクジエンガオオクリシマース!

いまだ明るい宵の街から、事務所のある薄暗い路地へと入る前に、一寸だけ立ち止まって
ショーウィンドウに映る自分の姿を確認した。
黒革のジャケット、銀のアクセサリー、伸びた髪、無精髭、荒涼とした眼────
一目俺の姿を見れば、五歳の子供でも俺の職業をヤクザと言い当てることだろう。
もしこの俺が、実は俺はこれでも警官なんだと訴えたところで、誰か信じる人間がいるだろうか?最近自分自身ですら、時々それが信じられなくなる時があるというのに。

毎日のように俺は、無辜の人々の喉元を締め上げては、その小さな幸福を搾り取る。
無数の男を傷つけ、同じくらい多くの女を泣かせる。
どんな黒社会の人間より、俺は黒社会の人間らしく見えるに違いない。そうあるべきだった。

俺が身分を偽ってサム一家に潜入して得た情報は、上司のウォン警部の手を経て、多くの
犯罪者を逮捕させ、また幾つかの密輸ルートを潰している。
だがその一方で、毎日のように新たな若者が何人もこの黒社会に足を踏み入れ、俺は
俺自身の手で世界を汚し続ける。

これに終わりはあるのだろうか。
最初は3年だった筈の潜入が、さらにもう3年────
俺は一体、正義の階段を昇っているのだろうか? それとも罪に堕ちているのか?
過去は消えて、明日も見えない。俺は時々、闇の中をさまよっているような気がした。
……ここには上も下もなく、後も先もない。ただ無限に、暗黒だけが続いている……

仏教の経典に曰く────
人の堕ちる地獄は八種類ある。最も苦しい地獄は、その最下層にある。
そこには時間も、空間も、量の際限も無い。ただ苦しみだけが許されることなく永遠に続いていく。

────その地獄のことを、無間道(無間地獄)という。

事務所の扉を開けて、一歩中に踏み込むと、そこに妙な空気が漂っていることに俺は気付いた。
この“事務所”はサムが盗品などを動かすために尖沙咀中に設けている中継地点の一つで、
商品をプールしておくための倉庫が地下についている……というより正確には、地下倉庫の
階上に、申し訳程度に“事務所”と呼ばれる殺風景な小部屋がついている。
薄暗い蛍光灯、剥き出しの壁、スチールのテーブル、折り畳み式の椅子、狂った時計、古い電話。

テーブルでは、一応俺の兄貴分ということになっている通称馬鹿のキョンことチョイ・シウキョン
が、同僚である髭面のディトロ──関係ないが本名はデルピエロ──と向かい合って、
まずそうに麺をすすっていた。
キョンは、俺を見ると何故かホッとした様子で、箸を投げ出して飛びつくように駆け寄ってきた。

「まったく~、どこ行ってたんだよ、ヤン! お前、いっつも居て欲しい時に限って黙って
 どっか行きやがって……分かった、女だろ、さては女のとこだな!? 」

俺はただ黙ってニヤニヤしておいた。答えたくない時にはこうしておくと、キョンはいつも
都合のいいように解釈してくれる。俺は、逆にキョンに訊ねた。

「何かあったのか? 」

「それがさ…… 」

キョンとディトロが、微妙な顔つきで目を見合わせる。俺は、ここにもう一人居るべき筈の
人間が、見当たらないことに気が付いた。今日は俺たちの他にもう一人、古参の兄貴分が
詰めている筈だったが、どうやらその姿がない。

「あいつは…… 」

どこへ行った、と俺が訊こうとしたちょうどその時。

『────────────!!!!!! 』

異様な声が、地下倉庫へ通じる扉の向こうから響いてきた。
必死で耐え、こらえようとしながらも、あまりの苦痛の大きさに我知らずほとばしったとでも
いうような、くぐもっていながらも鋭い、呻きとも泣き声ともつかない声だった。

それを耳にした途端に、俺は、例の姿の見えない兄貴分がどこで何をしているのかと、
キョンたちのまずい顔の理由をいっぺんに悟った。
件の兄貴分は、悪い趣味を2つ持っている。
1つは嗜虐趣味、そしてもう一つは、鶏姦趣味だった。
それらの趣味を満足させるために、その兄貴分は手段を選ばなかった。

奴は自分の気の向くままに好みの若い男を物色し、狙いを定めると、恐喝や暴力、または
理不尽な難癖などを用いて犠牲者を絡め捕り、巣に連れ込んでは好き放題に苛んだ。
俺は、一緒に仕事をしなければならない場合は極力、角が立たないようにさりげなく兄貴分を
その趣味から引き離すようにしていた。もし俺が警官でなく、ただのヤクザだったとしても
おそらくそうしていただろうと思う。それほど、そのやり方はえげつなかった。

その辺に関しては、キョンやディトロにしても同じような気持ちだっただろうが、この2人には
器用に兄貴分をなだめておくというのは、難しい相談だっただろう。
その兄貴分は古参というだけではなく、近頃では幹部候補と言われていた。
サム一家ではキョンたちよりも長く、以前は鳴かず飛ばずだったらしいが、近年になり
方針を変えたサムが容赦ない手段を用いるようになってから、胸糞悪い仕事を喜んで
やることができるこの男は、頭角を表してきていた。

「で、相手は? 」

俺は2人に訊いた。
この幹部候補はたちの悪いことに、何らかの失態などをサムに告げると脅しては、組織の
若い者にまで手をかけると、もっぱらの噂になっていた。もし本当にそんなことでもあれば、
多少角が立とうが放ってはおけないだろう。
キョンの答えは、しかし、予想外のものだった。

「警官だよ」
「────警官……? 」
「そう。顔は見せないよう連れ込んでたけど、制服着てたよ。そりゃサツがどうなろうが
 知ったこっちゃないけど、今日はその、いつもより激しくってさ。あの声だろ? 参っちまう」

(……警官……)

その言葉は、今の俺にはとても強い力を持って響いた。
実は、つい先ほどまでウォン警部と会っていた。その時の気分がまだ抜けきれずに、俺は、
会ったこともないその警官に、無視しきれない仲間意識のようなものを感じた。

助けてやりたい。
だが、“黒社会で生きるヤン”としては不自然な行動ということにはならないだろうか?

『───────!! …………!!!! 』

また、ひときわ大きく悲鳴が聞こえてくる。同時に、ガチャガチャと金属のぶつかり合うような音。
それらの音声は何か、酷く傷つけられた獣が、なんとか逃れようと鉄の檻に体をぶつけては
望みのない足掻きをしているといった、気の滅入るような情景を連想させた。
俺は、気がつくと、地下への階段に通じる扉の方に足を向けていた。

「なんだよ、助けに行くのか? 正義の味方か? 」

キョンが、丸い目をさらに丸くする。俺は肩をすくめた。

「いや、あいつに急ぎの用がある。……入ってどのくらいになる? 」

「20分……30分くらいかなぁ? 真っ最中は遠慮したいってんなら言うけど、あの様子じゃ
 まだ前戯ってとこだと思うよ」

キョンが言うと、ディトロが初めて口を開いた。

「俺の昔の女は、俺にしょっちゅう前戯が短いって文句言ってたが、あれが前戯って言うなら、
 あの女だって前戯なんか無しでいいって思うんじゃねぇかなぁ」

俺は扉を開けた。傍らの壁に、背もたれのない折り畳み椅子が畳んで立てかけてあったので、
掴んで提げていく。

扉を出ると短い廊下になっていて、突き当たりに地下倉庫への階段がある。照明が
消えていて暗かったが、灯りはつけずにしばらく立ち止まって、暗闇に目を慣らした。

『………!! ……! ………………!!! 』

さっきよりも、はっきりと聞こえてくる。苦悶の声、金属音、そして、何か低く喋っている、
聞き覚えのある声。そこには、嘲るような笑いが含まれているようだった。
知らないうちに俺は、椅子の脚を固く握りしめていた。
眼の奥がカッと燃えるように熱い。

凶暴な何かが肚の奥底からこみ上げてきそうになる。警部と会った後はよくこんな風に
気持ちが不安定になった。警官としての俺の誇りと、黒社会での俺の生活。いつまでも
埋まらないギャップ。疲れ、苛立ち。
近頃では耐えきれなくなると、ちょっとしたきっかけでタガが外れたようになって、時折
大きな暴力事件を起こすようになっていた。
警部からは今日もカウンセリングの受診を勧められたが、そんなものでどうなるとも思えない。

階段の上から見下ろすと、底の方は慣れた目にも闇に沈んで見えて、まるで地獄に通じる
入り口のような錯覚を覚えさせた。どっぷりと闇に身を浸すように底まで降りると、地下倉庫の
扉の脇にある、倉庫内の電源スイッチを落とした。
そして、扉を開ける。

「何だ!? 」

奥の方で、例の兄貴分の喚く声がした。よほど慌てたのか、何かを取り落としでもしたらしく、
出荷が済んだばかりの空っぽの倉庫に、ガラン、と固い音が響き渡った。
俺は黙って奥へと歩いていく。
この倉庫にはところどころ壁の上の方に、地上へ向かって開けられた換気窓があったが、
裏通りに面しているので、車でも通らない限りは、夜は大した光源とはならない。
が、俺の目は入り口の反対側の壁際に立つ黒い影と、その足下にうずくまった白っぽい何かを
ちゃんと捉えていた。逆に相手がこちらを把握するのには、まだしばらく時間が必要だろう。

奥に進むにつれて、倉庫内に元々よどんでいた埃っぽい空気に、つけ過ぎたコロンと、昂ぶった
男の体臭の混じり合ったものが紛れてくる。
そして、汗と血、かすかな死の臭い……

(────死…? 殺気が……? )

黒社会で生きるうちに身につけた俺の感覚が、ごくわずかに殺気を嗅ぎ取ったと思ったが、
それは一瞬で紛れて、分からなくなってしまった。
俺の気の迷いか、それともまさかこの兄貴分は……?
これまで、さんざん相手を痛めつけ、弄んだとしても、殺したことまではなかった筈だが……

俺は、悪態をつき続けるその男に、ゆっくりと近づいていった。

「畜生、馬鹿キョンか!? この間抜け、さっさと電気をつけやがれ! 一体何の用だ?
 分け前でも欲しいのか? 俺の気が済んだ後なら、好きなように…… 」

声でその位置の見当をつけ、手にした椅子を思い切り振り上げると、力一杯振り下ろす。

「ぐっ……!? 」

相手は、くずおれそうになりながらも盲滅法に掴みかかってきたが、俺は軽くいなして
蹴り飛ばし、さらにその倒れたあたりに向かって、二度三度と椅子を叩きつけた。
十回かそこら殴ったあたりで、抵抗を感じなくなったので椅子を投げ出す。
死んではいないだろう。多分。

「……は………ぁ…………… 」

かすかな喘ぎに壁際の方を振り返り、俺は思わずドキリとしていた。
おそらくは一糸まとわない姿と思われる若い男の身体が、壊れた玩具のようにそこに
投げ出されている。
闇の中に仄白く浮かび上がった全身のいたる処に、赤黒い筋や、蒼く色の沈んだ部分が
あるのは、先ほどまで与えられていた苦痛の痕跡だろう。
苦しげな呼吸音に応じて微かに息づく傷ついた青白い肉体が、妙に蠱惑的に見えて、俺は
不思議に後ろめたいような気持ちになった。

かといって、そのままにしておくわけにもいかないので、なるべく凝視しないようにしながら、
その若い警官に近づいていって、様子を確認する。
真っ先に、ぐったりと前に投げ出された手首に2種類の金属が光っているのが目に付いた。
1つはロレックス。しかも高い方のやつ。そしてもう一つは、手錠だった。
この警官は、壁に通っている鉄パイプに手錠で繋がれて、身動きを封じられている。

俺はちょっと考えてみてから、気絶している兄貴分のジャケットのポケットを探り、手錠の
鍵を見つけ出した。

「おい」

手錠の縛めを解いて、抱き起こす。
意識がはっきりしないのか、その男は、俺の胸に身体を預けたまま何も答えなかった。
荒い息遣い。
俺は何故か次の言葉を出せず、喘ぐように上下する肩の動きをぼんやりと見つめていた。
上の道を車が通り、浮いた汗でぬめるような項の光沢を浮かび上がらせて去っていった。
と、男がひときわ深く息をつくと、静かに顔を上げた。
片手を伸ばして、何かを試すようにゆっくりと俺の頬をなぞる。

また一台、車が通り過ぎる。
光の中で、男は俺を見つめ、俺は、男のその眼を覗き込んだ。
白く整った面差しの中に、くっきりと浮き上がるような、切れの長いふたえの眼。
顔立ちそのものというよりも、その眼つきが、俺の心に強く灼きついた。
全てをを冷たく拒絶するようでいながら、その奥底に恐ろしいほどの渇望を燻らせている、
そんな眼つきをしていた。
覗き込むと、底知れぬ深い奈落の縁に立っている気がするような、黒い瞳。

────黒い…………

────────黒い、…………闇……

そこには、時間も空間もない。ただ苦しみだけが永遠に続いてゆく。
その男の眼の中に、俺は、俺の地獄を見たと思った。
引き込まれるように、奈落の縁の、その足元が崩れてゆく感覚。
堕ちてゆく。いや、昇っているのだろうか。
仏の慈悲の手の、指の間からこぼれ落ちる。落ちる。堕ちる。
ただひたすら、闇をさまよう。救いはない。そして、終わりもない。
眼の奥が熱い。凶暴な衝動が、喉元にこみ上げる。

俺は何かに憑かれたように男の肩を掴むと、その身体を押し倒し、固い床の上に組み伏せた。
男が、喉の奥で小さく苦鳴を漏らす。
弱々しい抵抗を力まかせに押さえつけて、きめ細かく冷ややかな首筋から胸元に、唇を、
舌を這わせた。全身に刻まれた傷跡をなぞり、暖かな血を啜る。

這いずるように逃れようともがく男を、引き摺り、捉えて、完全に支配する。
蒼白い皮膚の上に快楽で涅槃を描いて、血肉の奥底にくるまれた地獄を吐き出させる。
泣き叫んで、救いを求めればいい。ここは地獄なのだから、どうせ救いはない。

堕ちながら深く切り込んで、互いの地獄を掛け合わせる。
餓鬼のように貪りながら堕ち続ければ、いつかは底に叩きつけられて、解放される時が
くるのかもしれない……

────解放……

……………………死?

(──────“死”!! )

ふいに死の臭いを嗅いだ気がして、俺は我に返った。
急いで周囲を見回したが、もう殺気は感じられない。例の兄貴分も、まだ床の上に
だらしなくのびたままだ。

(気のせいか……それにしても)

俺の胸には、若い警官がまだぐったりともたれている。
また一寸光が差し込んで照らされた顔は、諦めたような、疲れたような表情を見せて
眼を伏せていた。その瞼が、こまかく震えている。
なめらかな頬には幾筋もの涙の跡が光って、全体的にひどく子供っぽく、痛々しく見えた。

(俺は、どうかしている)

では、今の“地獄”は、幻だったというのか……
タイからの密輸品の試し過ぎとか? いやいや。
それともまさか潜在的な願望が? いやいやいや。
俺は一気に憂鬱になった。そろそろウォン警部の勧めに従い、カウンセリングを受けた方が
いいのかもしれない。

俄に、小さな呻き声とともに男が身体を動かした。囁くように、俺に言う。

「俺を…………どうにか……する…のか……? 」

自分の胸の内を見透かされたようでヒヤリとしたが、すぐに、殴る前に兄貴分が言った
言葉に思い当たった。

「まさか……こいつは俺の上の者なんだが、前から反りが合わなかった。それで、何でも
 いいから一度こいつを思いっきり殴ってやりたかった」

必要以上に饒舌になりながら、男を壁にもたせかけると、俺は闇を透かし見ながら、そちこちに
投げ捨てられている制服を拾い上げては男の方に投げてやった。

「大丈夫か? 」
「服から出てる部分は何とか。ごまかせるよ」

思った以上に、口調がしっかりしてきている。これなら安心していいだろう。

「この辺のパトロールか? もし奴に何か弱味でも握られてるんだったら、受け持ち区域を
 変えてもらうんだな。奴は執念深いから」

俺の問いかけに、男はしばらく沈黙していたが、やがて、何か考えている様子でポツリポツリと
話し始めた。

「大したことじゃないんだ……うん、駐禁を見逃したところを見られてね。相手が可愛い娘
 だったから。小さいことだけど、今度昇進試験を受けるから、告げ口されたくなかった。
 ……まあ、後始末は自分でちゃんとやるさ」

昇進試験と聞いて、ちょっと胸が痛んだ。陽の当たる警官の道を堂々と進んでいける
この男を羨まないようにするのは、今の俺にはなかなか難しいことだった。
視線を下に落とす。と、足元に何かがあるのを見つけた。多分男の服から落ちたものだろう、
それは手帳のようだった。

男は、着替えながら喋り続けている。話すことで自分を落ち着かせようとしているようにも
思えた。やはりショックが強かったのかもしれない。

「……今日のところは、失敗したよ。まさかこいつがここまで変態だと思ってなかったから、
 油断していた。もう、こんなヘマは二度とやらない……二度と」

俺がかがみ込むと、ちょうどまた灯りが差し込んで目の前が明るくなった。
そこにはやはり、手帳が落ちていた。表紙が開いて、カバーの折り返しに裏返しの写真が
挟んであるのが見える。恋人との写真なのか、端に“with mary”と書かれているようだった。
俺は手帳を拾い上げ、男に投げ渡した。

「これで全部か? 」

「ああ」

手帳を受け止めて、男はちょっと笑ったようだった。

「君は、黒社会の人間だけど、善人だな」

違う、俺も、君と同じ警官なんだ────そう言いたい衝動を、俺は何とか押さえつけた。

「黒社会に善人はいない。善人はあんたの方だろう。警官だからな」

パラパラパラ……と、手帳のページを弄ぶ音がする。

「……そうかな…… 」

ゆっくりとそういうと、その若い警官は、後は黙って身支度を続けた。
終わった頃を見計らって、俺が口を出す。

「ここから直接外に出られる非常口がある。鍵は開いているから…… 」

「ああ、ありがとう」

その非常口は何かの時の逃走用で判りにくい位置にあったのだが、俺がその場所を教えるより
先に男がそちらの方へと歩き出したようだったので、俺はちょっと驚いた。
ここに入った時点で予め出口の確保を考えていたのだろう。思ったより肚の据わった男のようだ。
あの兄貴分なんかにちょっとしたミス程度で追い込まれるとは……

男が非常口を開けた。裏通りの灯りとはいえ、扉を開け放つとかなり明るくなる。
立ち去り際に、その灯りに半面を照らさせて、男がこちらを振り返った。そして言う。

「……そうだな、でも、善人になりたいよ」

扉が閉まり、また俺は闇の中に取り残される。
たった今、男が見せた眼つきが強く俺の胸に灼きついていた。
突き放し、拒絶しながら、同時に何かを強く訴えようとしている、その眼つきが。

数日後、件の悪趣味な幹部候補は、死体となって発見された。
死体の確認に行った帰りの車を運転しながら、キョンが興奮してまくしたてる。

「不意打ちで身動きできなくした後、メッタメタにやっつけといてトドメにあいつ自身の銃を
 奪って額のド真ん中にズドン!! ……よっぽど恨んでる奴がやったんだな」

「そんな奴多すぎて、誰が犯人かなんて解らねえな」

ディトロが言った。2人とも──俺もだが──奴に好感を持っていなかったので、車内の
空気は呑気なものだった。

「マリー姐さんが殺されてからいくらやり方が厳しくなったからって、あいつはやり過ぎ
 だったんだよ! だいたい…… 」

キョンはさらに、死人の棚卸しをやっている。ディトロがそれの相手をしているのを、俺は
ぼんやりと聞いていた。

「そういえばあいつ、マリー姐さんを殺した奴に心当たりがあるって、前に言ってたなぁ…… 」

「ハッタリだよ! ていうかあれ、ハウのとこがやったに決まってるじゃねぇか。それとも、
 真犯人は別にいるってか? なーんだそれ」

にぎにぎしいキョンの声を聞き流しながら、何となく俺は、あの日の若い警官の眼を
思い出していた。
あの時、俺はあの男の眼の中に俺の地獄を見たと思ったが、本当にそうだったのだろうか。
俺以外にも、心に地獄を抱えて生きる男がいたのかもしれない。
あの瞳の中にあったのは誰のものでもない彼自身の地獄で、あの瞬間、闇の中で、俺の地獄と
彼の地獄が交差していたのではないだろうか。

俺は想像した。しかし、それは想像に過ぎない。
確かめる術はない。この闇の中には苦しみの他の道連れはない。未来永劫を1人でさまよう。

涅槃経第十九に曰く────

────阿者言無,鼻者名間,為無時間,為無空間,為無量受業報之界。

絶え間無きもの3つ、時間、空間、業。
罪を犯したる者は、この地獄で絶え間無き苦しみを受ける。
……その地獄の名を、無間道という。

□STOP ピッ ◇⊂(・∀・)イジョウ、ジサクジエンデシタ!

※黒社会=893業界 尖沙咀=サムサチョイ。地名

以上です。ありがとうございました。


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