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おお振り ハルニャとアヘ

 ただいまと、汚れた靴を三和土に放って家に上がったところで、いつもなら声だけでおかえりと答える母親が、台所から飛び出してきたから驚いた。
「タカ、ちょっと」
「なに」
 母が強ばった顔で腕を取ろうとするのを、反射的に避けた。そんな俺に、母親はますます目元を引きつらせた。
「見せなさい」
「何を」
「いいから」
「ちょ、なんだよ」
 つかみ掛かってこようとする手を振り払い、ギッと睨み付けた。訳の分からない母親の態度に、戸惑いよりも腹立ちを覚えた。
「なに、いきなり、見せろって」
「あんた」
 俺を見つめる母親の目が、涙に曇った。ほとんど泣きそうな声で、母は言った。
「もしかして、イジメにあってるんじゃないの」
「は?」
 ぽかんとした。イジメ?
「野球クラブで」
 俺があんまり呆気にとられた様子だったせいか、予想を裏切られたらしい母は若干の落ち着きを取り戻し、今度は言葉もゆっくりと、俺に問うた。
「ねえ、タカヤ。どうなの?」
「どうもこうも」

 俺はかすれた声で答えた。
「何を根拠に」
「……シュンちゃんが、昨日お風呂場で、あんたの体見て、びっくりしたって……。どう見ても、ふつうに野球してて、できるような痣の数じゃないって」
 あれはぜったい、ふつうじゃないって、そう母は言いながら、また目に涙を浮かべた。ああ、なるほど、それでか。俺は思った。参ったなと頭を掻きながら、肩を竦めて母を見た。
「全然、それはない。本当にないから、心配いらない」
 でも、といった顔をした母に、俺は、まあ確かにねとシャツの袖を捲ってみせた。醜く斑になった腕を掲げて、言った。
「痣が多いのは、俺、正捕手だからさ。しょうがないんだよ」
 そう、しょうがない。
「しょうがないなんて、……その痣、本当に普通じゃないわよ」
 そう、普通じゃない。ハルナの野郎は。
 いや、俺達は、か。
「お母さん、今度、監督さんに話を……」
 母の言葉にぎょっとして、ざけんな、と咄嗟に大きな声が出た。
「変な勘違いして騒ぐのやめろよ、みっともねえ」
「何なのその言い方は、親が心配してるのを」
「関係ねえだろ、とにかくイジメとか違うし、余計なことしたらマジで許さねえかんな」
「ちょっと」
「絶対だぞ。俺の野球のことに首突っ込むな、突っ込んだら」
 殺す、とまで思わず言いかけて、さすがにそれは飲み込んだ。怒りで白っぽくくすんだ母の顔から、気まずい思いで視線を逸らして、俺は自分の部屋に逃げた。
「……」
 荷物を床に投げ出し、シャツを脱いだ。ミシミシと痛む背中を丸めて脇腹を覗き込み、真新しい痣の位置を確かめる。
 畜生め、と、マウンドで笑うハルナに悪態をつく。記憶の中の奴の笑顔は、やけに色鮮やかだ。

 白い歯を見せて笑うハルナの顔。どうしてこんなに鮮明に『見える』のか。
 ピッチャーマウンドまでの距離を考えたら、ありえない。つまりこの笑顔は、俺が脳内で捏造したものということなんだろう。
『よくまあ、逃げねーな、オメーは』……
 その球を何度、胸に、腹に、腕にくらったろう。それでも俺はここに座る、ハルナの前に。
「ノーコン野郎」
 奥歯をギリギリ噛み締めて、マスク越しに奴を睨み付ける。
 嘲ったような表情。人をなめた態度。
 いっぺん死ね、と念じる俺の視線に気づいたように、ハルナはついと、その顔を真っすぐこっちに向けた。
「あ」
 帽子の鍔の陰で、ちかりとその目が光ったのが、『見えた』。
 来る。
「うおっ、スゲー」

 周囲がどよめき、やっぱハンパねえな、と感嘆の溜め息がそこかしこから漏れる。
「ナイスボー!」
 誰かがはしゃいだ声を上げた。はっと我に返って、次の瞬間身震いが出た。あの空気を切り裂く音。俺の耳の奥には、その残響が消えずに未だ在る、鳴り止まない。
 公式戦でも滅多に出さない、全力投球。スピードは桁違い。
 構えたミットのど真ん中、ストレート、『完璧な』ストライク。
 下腹から這い上がる甘い疼きに、全身がゾワゾワと粟立つ。首筋がひやりとする。
 身じろぎもできない。もし無理に動こうとしたら、俺はバラバラになってしまう。きっと壊れてしまう。
 壊れてしまう。
「……っ」
 ハルナはそれを知っていて、だからこの時ばかりは、タカヤとっとと球返せ、などと催促してはこない。イラついた顔もせず、ニヤニヤとそっぽを向いて待っている。
 奴の横顔が白く霞む。
「くそ……っ」
 この快感に慣れるなんて無理だ。
 逃げるのは、もっと無理だ。
 だって、射精より全然すごい。

 ハルナは、エースだ。ただのエースじゃない、特別の、決して代わりがきかない。勝つために、なくてはならないエース。
『タカヤみたく怖がんねえヤツじゃないと、投げづらくって俺、嫌っすね』
 俺のレギュラー入りは、ハルナの一言で決まった。
 誰からも、先輩たちからも、文句は出なかった。
 勝てる威球を投げられるエースの、捕手を務められたのは、俺だけだったから。
『俺の球、そこそこまともに捕れんの、タカヤだけだし』
 捕れるようになるまで、半年かかった。体に負った傷は、数知れない。みんな、それを見ていた。呆れた顔で、怯えた顔で、見ていた。
 タカヤってマゾなんじゃねえ、なんて殊更冗談っぽく揶揄してくるやつもいたし、そうまでしてレギュラーとりたいか、と陰口を叩かれていたのも知っている。
 俺は、レギュラーに、正捕手になりたかった。
 ハルナの球を捕れるようになれば。

 あ、終わった、とハルナが舌打ちしたのを背中で聞いた。
 ガツンと音を立てたのは、ゴミ箱らしい。結構派手に響いたが、俺は振り返らなかった。
「おーい、タカヤ」
 後ろからぐっと腕を掴まれ、思わず顔が顰んだ。馬鹿野郎、そこさっきてめえでタマぶつけといて、もう忘れやがったか。
 そう思ったが、言わなかった。上目に奴を睨んで、何すか、と不機嫌に問う。
「やるよ。食え」
「え?」
「ガム」
 俺の口に、おら、とハルナはその指先を突っ込んだ。舌の上を四角い小さな粒が滑った、ハルナがいつも噛んでる、キシリトールのやつ。喉の奥に入りそうになったのを、慌てて吐き出し前歯で噛む。
 あっぶねえ、何考えてんだこいつ。どうすんだ、もし反射的に、俺がその指、思いっきり噛んじまったりとかしてたら。しかも今のは、利き手の左。
 そう思ってゾッとして、同時に、大丈夫だったことにほっとした。ハルナはそんな俺をよそに、最後の一つらしいガムを自分の口に放り込み、帰り買ってかねえとな、なんて悠長に財布の中身を確かめている。

「なあ、お前も普段から噛んどけよ、タカヤ」
「……ガムをすか?」
「そ。ちゃんと歯にいいやつ」
 口の端を引っ張り、その顔に似合ったきれいな歯を覗かせて、ハルナは言った。
「つうかお前さ、キャッチの間ずっと、思いっきり歯ァ食い縛ってんだろ? 大概にしとけよ、奥歯、マジでボロボロになんぜ」
「はあ?」
 俺はまじまじと奴の顔を見た。
「大概にって……」
 ――あんた、俺が必死で歯、食い縛ってんの、いったい何でだと思ってるんだ?
「……あー、そっすね」
 口元が歪む。クソが、と吐き捨ててやりたい。
「んだよ、変なツラして」
 俯いた俺の顔をぶしつけに覗き込んで、ガム嫌いか? なんて、ハルナはひどく見当違いなことを言う。
「いえ」
 奴の顔があんまり近くて、ガムのミントが怖いくらい匂った。
「好きっすよ。ガムは」
 好きっす、と俺は首を横に振った。

 俺は、レギュラーに、正捕手になりたかった。
 痛みと恐怖から、逃げなかったのは、だから。それだけのこと、それだけの。
 ――けれど。
『まァ、エンリョナシに投げてっかんな』
 あの、奇跡のようなストレート。
『お前、怖がんねーからよ』
 もう無理だ。とても逃げられない。

 茨の鞭には、甘い毒が塗ってあったのかもしれない。

□ STOP ピッ ◇⊂(・∀・ )イジョウ、ジサクジエンデシタ!

SS投下久々なので大緊張…
失礼致しました!

  • ふおお萌えました…!! -- 2010-07-24 (土) 18:49:17
  • めっちゃいい感じですね!!この2人大好きなんで嬉しいですw -- 2010-07-24 (土) 22:06:42
  • 尋常じゃないくらい萌えました…! -- 2011-05-07 (土) 16:09:22

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