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男と彼

|>PLAY ピッ ◇⊂(・∀・ )ナマ、イッポンハイリマース

その日、彼の体調が悪いのに気づいたのは男だけだった。
いつものように大きな声で笑っている彼が少し疲れているように見えたが、
(また偏頭痛やろか)と思い、黙っていた。
彼は自分の体調の悪さを周りに気取られるのを嫌がるから。
その日は段取りも良くたいしたトラブルも無かったが、全て片付いたのは深夜だった。
「お疲れ様でした」とスタッフに声をかけられ、「おぅ」と手をあげてスタジオを出る。
閉まりかけたエレベーターを止め中に滑り込むと、彼が一人でぐったりと壁に凭れ掛かっていた。
長い間二人きりになることはほとんど無く、たまにこんなことがあると少し気まずい。
体のことを聞いた方がいいだろうか、ほっておくか?
俯いて考える男の視線の片隅に、ずるずると壁沿いに倒れるように座りこむ彼の姿が飛び込む。
「…おい」肩に手をかける。熱い。顔に玉のような汗をかいている。
「おい、熱あるんちゃうんか?マネどうした?」彼は答えない。
普段なら、スタジオにマネージャーが待っていて、そのまま車で彼の家まで送っていくはずだ。
エレベーターを降りたところで、ちょうど通りかかったディレクターが声をかけてきた。
「あ、お疲れさんです。あれ、どうしたの?」
「こいつのマネ知らん?」
「ああ、今日は事務所に呼び出されて帰りましたよ。タクシー使ってくれって話してたけど」
(…あのボケ、こいつの体調も見分けられんのか)と思ったがそれを言っても仕方ない。
「これ、一人で帰せんやろ。誰かおらんの?」
「ついさっき皆出ちゃったところだね、困ったな」
「あー、もうええわ、うち連れてく」煮え切らない答えにいらだって、男が半切れで言った。
「家知ってるの?」
「知らん。やからうちに運んどくし、…嫁さんにはそう連絡したってぇや」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼の体を支えながら駐車場に向かった。

彼の体は驚くほど軽い。
車のドアを開け助手席に座らせようとしても、男に寄りかかって動けない。
仕方なく半ば抱えるようにして座らせ、楽になれるようにギリギリまでシートを倒す。
エンジンをかけながら男は考えた、『どこ』へ連れ帰ろうかと。

マンションの駐車場に車を止めると、立たせるのは諦めて彼の体を抱きかかえた。
しんとした廊下に、男の靴音が響く。
久しぶりに帰ってきた部屋の鍵がなかなか合わず苛立つ。
長く締め切っていた部屋は少し湿気くさい。窓を開けようとしてやめる。
彼の体をベッドに横たえると、背中まで汗で濡れているのに気づいた。
(こんままにしとけないわなあ)
風呂場からタオルとTシャツを取ってきて、彼の濡れたシャツとジーンズを脱がせる。
体を拭いてやり自分のTシャツを着せるが、彼の小さな体はTシャツの中で泳いでいる。
「俺ので大きいかぁ?痩せ過ぎやんなあ…」そう言いつつ、彼の額に手をあて噴出す汗をぬぐう。
男はもう一度風呂場に行くと、新しいタオルを濡らして彼の額にあてた。
彼は眉根を寄せて苦しそうな呼吸をしている。何度もタオルを濡らして額に乗せる。
それを繰り返している時に、彼が薄目を開いた。
「…ん…」頭が痛い。体中が熱い。思考はぼんやりとしているし目は翳んでいる。
「無理に起きんと寝とき」聞き慣れた声。
「…ジブン……、なんでおるの…?」
「お前鎮痛剤持ち歩いとるやろ?どこや」
「…尻のポケット…」答えるが声が出ているのか自分でもわからない。
男はジーンズのポケットを探ると、拉げた煙草と割れかけた白い錠剤を取り出した。
冷蔵庫にかろうじて1本残っていたミネラルウォーターのキャップを開け、宮棚に置いたコップに注ぐ。
彼は男が「それ飲んどけ」と言ったのを聞いたが、そのまままた伏せてしまった。

濡らしなおしたタオルを持って戻った男は、そのままになっている錠剤と水を見て眉を顰める。
「ぅい、飲めて」彼の背中を支えて抱き起こして飲ませようとするが、水は唇を滑って零れ落ちる。
男は彼の口を抉じ開け、錠剤を舌に乗せた。
水を口に含んで、薄く開いた唇から流し込む。
喉が動くのを確かめてもう一度水を口移しで流しこませ、横たわらせた。
残った水を一気に飲み干し、コップを片付けようと背を向けた時、彼がかすかにつぶやいた。
「…めん」
聞き取れず彼の口元に耳を寄せる。
「……ごめん…」かすれた弱い声。
「何がごめんて?」
「………ひとりにして…ごめん」
男はその言葉に縛られたように動けなくなる。
彼は時々こういうことをする。…心の一番奥に埋めた物を掘り起こすようなことを。
『それ』が未だに自分を傷つけるということが、余計に男を傷つけた。
「なんで、今それを言うねん…」

「なんで、今それを言うねん!」
自分で思っていたより大きい声が、男自身を驚かせた。
「せやかて、…今言わな、いつ言うねん。来週にはもう」
言いかけた彼の言葉を遮り、声を荒げる。
「そうや、来週には新しい仕事や!今色々考えなあかん時や!…そんな話、もっと前にできんかったんか!?」
「前にしたかて、今したかて、変わらんやないか!」男の態度に、彼にも怒りが伝染ったようだった。
来週。二人は住み慣れた土地を離れ、新しい場所での生活を始めるところだった。
今まで培ってきた経験が通じるのかもわからず、仕事も人の伝も何もかも霧の中にいるようで不安を募らせていく。
それでも二人ならば、なんとでもなる。道は切り開いてゆける。それだけは口に出さずともお互いに信じていたはずだ。
そんな時に、彼は突然男に告げた。
「向こう着いて、仕事落ち着いたら、結婚すんねん」
そうぶっきらぼうに言い放って、なぜか不貞腐れている。
彼が寂しがりなのはよく知っていた。子供の頃から一人でいることができない。
人懐こいのも、乱暴な口の聞き方も、すべてそこからきているのだと。
男もまた寂しがりだった。極端な人見知りでもあった。
ただ、男はそれを誰にも…特に彼には知られたくなかった。
周りに「あいつは一人でも平気な変わり者」と言われても、男にはなんとも無かった。
むしろそうやって人を引き離すことで安心感を得ていた。誰も失うことがない『安心』。
互いにそれなりに女遊びはしていたし、彼はいずれは結婚するだろうことはわかっていた。
わかっていたつもりだった。
なぜこれほど怒っているのか自身でも考えあぐねていた。
男は、彼が自分を置いてゆくのだと感じた。なぜそう思うのかは考えたくなかった。
「もうええ、わかった。…仕事に影響さすな、それだけや」もうこれ以上の話は聞きたくない、と手を振り、
「怒鳴ってすまん」と切り上げて部屋を出る男の背中に向かって彼が言った。
「ひとりにして、ごめん」一番聞きたくない言葉に、男は答えることもできず出て行った。
傷ついたのは、自分の孤独に彼が気づいていたことを知ってしまったからだった。

残されて彼は考えていた。こんなに急いで結婚を決めた意味を。
(今言うても前に言うても、どないもならんやん。同しや)
男がおそらく自分よりもずっと寂しがりで怖がりなのを知っている。
男の隣にいるのはいつでも彼で、それは当たり前のことだった。
けれどそれはいつ誰にかわってもおかしくはない。もう二人とも子供ではないのだから。
男が自分以外の相手を求めた時に耐え切れるだろうか?
好きな女ができれば結婚したいと思っていたし、早く父親になりたいと思っている。
その一方で、男と二人だけで生きていきたいという想いにも惹かれているのはごまかせなかった。
感情のバランスが取れなくなっていた彼は、家庭に逃げることにした。
間違いなくそこは暖かい場所のはずだから。
(俺、狡猾いわ)
彼は、ドアの向こうに消えた男の後ろ姿を見つめ続けていた。
二人は、一番大切な気持ちに蓋をした。
忙しい日々は互いをすれ違わせ、『何か』を置き去りにしたまま時は過ぎた。

男は彼の額のタオルを取り、顔の汗を拭いてやる。
手をあてると、少しは熱が引いているように感じる。
男の右手は彼の額から頬をすべり、柔らかい髪に触れた。
その手を彼の右手が押さえた。
「寝惚けとんのか?」払おうとするが、彼の小さな手は男の指を捕らえて離さない。
赤子が母親の手を握り締めるように。
男は振り払うのを諦めて手をつないだままベッドに寄りかかり、長い足を放り出して座り込んだ。
「煙草くらいしかすることあらへんな」
宮棚から煙草のカートンを取り、器用に左手で封を切る。
「禁煙、するつもりやってんけどなあ」
誰に言うとも無くつぶやき、眠る彼の顔を見上げる。
煙と一緒にため息を吐き出す。ゆらゆらと上っていく煙を眺める。
熱を持った右手が時々きゅっと男の手を握る。
男は吸殻をひねると開いた手で毛布を掛けなおし、新しい煙草を銜えた。
(今更考えることちゃうよなあ)
彼が小さく男の名をつぶやく。
銀色のライターが強い音をたてて炎を吹き出す。
「なあ」眠っているのを承知で彼に話しかける。
「なんでそんなこと覚えてんねんな」答えは無い。
彼もまた記憶の底にあのことを眠らせていたのだろうか。
「…あほらし」強く吸い込む煙草の赤い火は夜の中でじりじりと音を立てた。

「……煙っ」
目覚めた彼は最初に薄く広がる煙を見た。
まだ頭がはっきりとしない。見覚えの無い部屋。
「どこや…ここ」ぼそっと呟く。右腕が重く痺れている。
「起きたんか」掛けられた声の主が誰かすぐにはわからなかった。
男は彼の額に手をあて、熱をはかる。
「だいぶ熱退いたな、風邪ひいとったんか?」
「ここ、ジブンち…?」
「半分そうや」
「半分て、なん?」
「隠れ家」男はニヤリとわらって呟いた。
「隠れ家?」
「秘密基地や」
「…秘密基地」その言葉に彼もニヤっとする。「中学生かい」
「裏山のな」と男が笑って言い、またまじめな顔に戻って続けた。
「ここは俺が本当に一人になりたい時にくるとこや」
彼は男が煙草を捻りつぶすのを見ていた。
男はもう一言付け加えた。
「…人連れてきたん、ジブンが初めてや」
その言葉は彼にわずかな優越感を与えた。
男は立ち上がりながら、ぼんやりとする彼に言った。
「ちょー、離し。便所行ってくる」
それで彼は初めて、自分の右手が彼の手を握っているのに気づいた。
凝りを解すように右手首を回しながら歩いていく男に、彼は問いかけた。
「ずっと、おってくれたん?」
男はドアの前で立ち止まり、「ぉん」とだけ答えると個室の中に消えた。
彼はベッドの下、男が座っていた場所に転がる幾つもの煙草の空き箱と、積み上げた吸殻を見た。
男の背中にさっき見た夢の後ろ姿を思い出して胸が痛んだ。

「ちょー詰め。俺も寝る」彼の体を押しやるように、男はベッドに滑り込む。
「…狭」
「しゃーないやろ、ジブンがおるからやないか」と文句を言いながらも、彼の寝場所を確保するために両腕をあげて頭の後ろで組む。
彼は腕の隙間から、男の端正な横顔を見ていた。
この忙しい男が、自分のために一晩を費やしてくれたのだろうか?
誰も入れたことが無いという殺風景な部屋。彼は半身を起こし部屋を見渡した。
自分たちの寝ているベッド、小さなコンポと数枚のCD、几帳面に床に並べた本。申し訳程度の作り付けの冷蔵庫。
およそ生活感の無い部屋が、いかにも男に似つかわしく見える。
(こんなんで平気で住んでそうやもんなあ)
男は身動きせず、彼もまた動けずに思い出していた。
遠い昔こんな風にひとつのベッドで寝た。くだらない話で笑い転げて、笑い疲れて眠る。子供の記憶。
「なあ、」沈黙に耐えられず彼が呼びかけた。
(俺、何を言おうとしてんやろ)
答えがないまま、ぼんやりと白い壁を眺める。二人きりの部屋。
突然、ぼうっとしている彼の背中に男が話しかけた。
「…言いたいことあるんやったら、言い。今なら聞いたる」
彼は、仰向けで目を閉じたままの男の方を振り返った。
(言いたいこと)それはひとつしかない。あの時置いてきたもの。ずっと眠っていた『何か』。
彼は男の真意を測りかねていた。

「…なあ。」
「うん」
言葉が続かない。時計の音がやけに響いている。
「…聞いとるよ。…ちゃんと聞いとるから、ゆっくり喋り」
そう言って、男は動かない。
「なあ、…俺な」声がかすれる。答えがない。眠っているんだろうか?
彼は息苦しくなった。それは伝えるべきことなのかわからない。
(なんで、今それを言うねん?)
けれど、今は留めておくことがどうしようもなく苦しい。
「俺、……ジブンのこと、好きや」
男は答えない。そのことに少し安心する。
「ずっと、今でも。…好きやってん」
窓の外では生活の始まった音がする。時計の針を刻む音がとても遅く感じる。
何よりも、自分の鼓動が部屋中に鳴り響くように思えて、彼は身を硬くする。
答えは無い。
(やっぱ眠ってもうてんやろ)
それならその方がいい。今まで無かった物なのだから。
(これからも無い、それでええやん)
彼は左手をついて男の寝顔を覗き込もうとした。

不意に、男の右手が彼の左頬に触れた。
「ちゃんと聞いとる、て言うたやろ」
驚きに何も言えない彼に、男は身を起こし両手で彼の顔を包んだ。
「ちゃんと聞いとった」男はまっすぐに彼の目を見つめている。
「俺、」ようやく彼がつぶやく。
言葉を封じるように唇を重ねる。
「伝染すなや」と言う目が笑っている。
喘いで薄く開いた唇に舌を滑り込ませ絡める。彼は男の背に腕を回した。
「もう一度言え」唇を重ねたまま、静かな声で男が囁く。
「…好き」
「もう一度」
「好きや」
「うん」
彼はうわ言のように繰り返す。好き。堰を切った言葉は止めることができない。
男は彼の唇を噛み、耳に口づけをして、小さく言った。
「俺も」唇が重なる。
目を見開いた彼は、至近距離で自分を見つめる黒い目に、男の真摯な想いを見た。
「俺も、好きや」男は繰り返した。
泣きたくなるような気持ちで、男の唇に噛み付く。
「好きや。聞いとるか?」
「うん、…うん」
何度も激しく口づけあい、彼は男の肩に頭を擦り付けてきつくしがみついた。

男は長い指で彼の髪をゆっくりと撫でる。
巻き戻る時間、取り去られた蓋。
ふたり。今、本当に二人でいる。
もう一度唇を求めようとした時、男は自分の背中に回されている腕の力が弱まるのを感じた。
「……おぇ…?」
うなじを支えて、彼の顔を上向かせる。
「……まじかいや…」
彼は穏やかな顔で目を閉じている。男はため息を吐いた。
「何でこのタイミングで寝んねや…、俺辛いやんけ」
彼の頭が後ろに反り返りそうになり、抱き締めなおした。
男はもう一度深くため息を吐き、起こさないよう片腕で抱きしめたままベッドに横たわる。
毛布をかけ、彼の小さな体を胸に抱えた。
片手で子供を寝かしつけるように背中をぽんぽんと叩き、空いた手で彼の髪を優しく撫で続ける。
「お前なあ、俺、女にかてこんなんしたことないねんぞ」
男の胸に凭れて、安心しきって眠る彼の顔を見る。
「あーあ」
しょうもな、と呟いて目を閉じる。
彼がかすかに男の名を呼ぶ。
(秘密基地)
なぜかおかしくなって、小さく笑う。
「…ぬくいな」
自分の鼓動と彼の鼓動が同調するのを感じる。
ゆっくりとその音しか聞こえなくなる。
何よりも暖かいものを抱えて、やがて男も深く眠りに落ちていった。

□ STOP ピッ ◇⊂(・∀・ )寸止め。


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