Top/S-66

振動×剤然(530 -11)

雑居ビルの3階に在りながら地下の穴蔵か船室のような印象のその店は、少し前に
織田霧医局長に教えられた。客あしらいがあっさりして落ち着ける場所だったはずが、
今夜は少し音楽が喧しい。
選択を誤った事を傍らの外科医に謝罪すると、
「なんだか昔に戻ったようだ。振動先生と居ると、自分まで若返ったように感じます」
と笑顔が返された。
言われてみれば――きびきびした若い印象でつい同輩のように思ってしまうが――
剤然は天下の難波大第一外科のトップである。普段飲むのは高級バーなのだろう。

やや暗い照明の下、カウンターに並んでバーボンのグラスを傾ける。音楽の喧騒と
回り始めた酔いを受けて話題は専門性の高いものから他愛無い世間話に流れていき、
やがてそれも途切れがちになった。
音楽が少し低くなった時、意匠を尽くした剤然のライターが小さい音を響かせる。
前の店でも何度か聴いたその音は、だんだん頻度を増すように思えた。
「ヘビースモーカーなんですね」
「ええ、医者の不養生というやつですか。特に酒を飲むとひどく欲しくなる」
「私も……、病院ではほとんど喫わなくなりましたけれど、なかなか止めるまでには」
振動もカウンターに置いた自分の箱を指先で突つく。
それを見遣った剤然は視線をふいと正面に投げた。
「……わないんですけどね」
言葉の前半を聞き取れなかった振動は、え?と相手の口元に耳を寄せる。
「昔から、なんですよ」
剤然はそう呟いて、点したばかりの煙草を何故か灰皿で揉み消した。
言い直さないという事は、聞こえなくても特に支障ない話だったのだ。
そう判断した振動が俯けた上体を少し起こすと、すぐ目の前に剤然の耳が有った。


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