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12doors

 一瞬視界がくらむ。
 たたらを踏んだ俺に、仕事仲間が「どうした」と声をかけてきたから
それには「なんでもない」と手振りで返した。
 その一方で、胸の奥がしんと冷えたのを自覚する。
(…この時がきたのか)
 案外遅かったな、なんて呑気に笑ってみるが、
それでも不安は胸中をじわじわと侵食していく。
 胞子汚染。
 その四文字が俺の脳裏をぐるぐると回る。
 ワクチンは打っていた。だがそれで感染が防げるわけではないことを、
開発者本人の口から聞いている。いざとなったら防護服が役に立たないことも、
あの気密室の女のメモから分かってはいた。
 それでも感染を免れていたのではないかと、望みを抱いていたのだ。
実際今までそれらしい兆候は見えていなかった。ここに来て、なぜ突然。
なぜ、今なのだろう。
(あいつ…)
 脳裏に浮かぶのは今日も家で一人俺の帰宅を待つヤツの姿。
(…あいつは感染しない…)
 メサイアだから。
(…置いていくことになるのか)
 そう思うと、不意に衝動がこみ上げた。悲しみと、不安と。
叫びだしそうになって、慌てて口を押さえる。嗚咽がこぼれてしまいそうだ。
 駄目だ。こんなんじゃ仕事にならない。
 脳裏に浮かぶあいつの顔。俺に懐く、俺に依存している…自惚れではなく、
きっと、俺なしでは生きられなくなっている男の顔。
(…置いていくんだな、俺は…)
 そうだ。ならば俺は───

 ヤツを、突き放さなければならないのだ。

 右腕を押さえる左手がじっとりと濡れている。
 しくじった。私情にとらわれ怪我を負うなんざプロの仕事じゃない。
脱出なんて簡単だったのにこのざまか。どこの阿呆だ、俺は。
これでも隊長を務めてたなんて、どの口で言える。
 俺は自分で自分を嘲笑いつつ、再度手早く応急処置を施した。
あんな仕事で怪我したなんて知られたらもう仕事は回ってこない。
怪我した直後はすぐに止血を施したので、仕事仲間たちにはかすり傷程度だと誤魔化すことが出来た。
…解散して帰路に着く頃には、間に合わせで巻いた布が赤く染まるほどになっている。
(…あいつに怒られるな)
 仕事で怪我したなんて知られたら。
(…このまましばらく身をくらませようか…)
 あいつの元には帰らず。その方がいい。そうすれば怪我したなんて知られずにすむ。
…ヤツを突き放すことも出来る。
 怒らせ、喧嘩して、愛想をつかせればいい。
ヤツの並じゃない俺への執着を、引き剥がしてしまえばいい。
…俺は、もうすぐ居なくなる人間なのだから。いつまでも依存させておくわけにはいかない。
 そうと決めると、次はねぐらを探さなければならない。
家に向かっていた道を逆に辿りはじめ、俺は唇を噛み締める。
 体が痛い。傷の痛みではなく、全身が軋むように痛い。胸が苦しい。
なんだかぐちゃぐちゃだ。わけが分からない感情が胸のうちを占めている。
悲しいような、悔しいような、苦しいような、怒りのような。
色んな感情がない交ぜになって、笑えるくらいに胸を圧迫してくる。
 俺はおかしい。
 離れることがいいのに、それが正解なのに、簡単なことなのにどうしてこんなにも混乱する。
 どうしてこんなにも悲しいのだ。

 俺はおかしい。
 前に進みたがらない足を、ともすれば踵を返しそうになる足を、懸命に前へ前へと進めていく。
 離れられないのはあいつの方なのか。依存しているのはあいつの方なのか。
執着しているのはあいつの方なのか。
 分からねえよ。なんなんだ一体。混乱する。
 亀の歩みのようなのろさで、それでも一歩一歩ヤツから離れていく俺に、声がかけられたのはその時だ。
「ジャック」という、聞きなれた声。少し息が切れている。走ってきたのか。
「…あんまり遅いから心配で…」
 声と一緒に、駆け足の音。俺は振り返ることが出来ない。
「…なんだってお前は…」
 こうもタイミングがいいのか、と言う呟きを口の中だけで。いや、この場合タイミングが悪いのか。
「…怪我をしているのか?」
 振り返らない俺に、ヤツは気にせず言葉を続けて俺の肩に手を乗せてくる。
焦っているような声音。「いやな予感がしたんだ」という呟き。変なところで勘を働かせるなよ。
「帰ろう」
 俺の肩に乗せた手に力を入れて、強引に反転させようとするのを俺は思わず振り払っていた。
 ヤツの驚いたような顔。泣きたくなる。
 離れられないのは、依存しているのは、執着しているのは、ヤツの方か。ヤツの方だけなのか。
 それはきっと違う。違うんだ。俺もそうなんだ。俺もヤツに依存している。
ヤツに負けないくらい…ヤツなしには生きられなくなっている。
 悲しいような、悔しいような、苦しいような、怒りのような、
色んな感情がごちゃ混ぜになって俺にももうなにがなんだか分からなかった。
 ただ衝動。
 驚き呆然としているヤツの蒼白な顔を血に汚れた手で掴み寄せ、
胸の奥からこみ上げてくる感情のままに顔を寄せる。
 その時の衝動のことを言葉ではうまく説明できない。よく覚えてもいない。真っ白だ。
 気がつけば俺は、ヤツに噛み付くように口付けていた。

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