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ゴミ捨て場に落ちていた男

あわわ。沢山のレスありがとうございます。楽しんで頂けて嬉しいです。
実はコソーリ逆視点も書いていました。やっぱり元ネタがこの板ですし、あと一話だけ
甘えさせて下さい(言い訳)つか、敬語攻展開をさせたかったので(本音)。

|>PLAY ピッ ◇⊂(´∀` )ゴミ捨て場に落ちていたヘタレア男、おかわり編。

 目が、疲れているのだろう。
 コンクリートのまだら模様をじっと見つめると、細かな灰色が動いているような
気がする。ぼやけた黒っぽい小石が、もぞもぞと移動している。
 いや、増えている。
 バルダッチーニは何度か瞬きして、徐々に数を増してゆく模様を目で追った。
首を傾げてから、薄暗いコンクリートの床から視線を上げ、錆びたトタン屋根に
遮られた鈍色の空をぼんやりと眺める。
 雨だ。大粒の雨が、渦巻く曇天から真っ直ぐに落ちてくる。
 雨の一粒が目尻に当たり、バルダッチーニの脳がようやく覚醒した。低く響いて
いた耳鳴りも消え、木立を揺らす風の音に気付く。
 なんという光景。なんという空だろう。木々は揺れ、雲は逆巻き、伸し掛かる
ような灰色の建物が、強い風に唸りを上げる。
 この国には、嵐が来るのか。バルダッチーニは、口を開けたまま空を見上げ
驚くほどの早さで通り過ぎてゆく千切れ雲に見入った。この町のどこかで、同じ
光景を山田さんも見ているだろうか。
 思い出した途端に、目頭が熱くなった。優しかった山田さん。日本の事を沢山
教えてくれた山田さん。恥ずかしいからと言って、名前を呼ばせてくれなかった
山田さん……僕の名前も、呼んでくれませんでしたね。
 Siete nel Yamada, dove? 何度も繰り返した言葉が、頭の中でこだまする。
 山田さん、貴方は、どこに居るのですか?
 もしかして、貴方の存在は……僕の、夢だったのでしょうか。

 それからの記憶は、継ぎ接ぎのモザイクのようで、すっかり落ち着いた今でも
上手く形にならない。
 落ちてきた傘よりも、駈けてゆく人影の方が目に焼き付いた。
 朝日の中に立つ、驚いた顔の原田さん。恐い顔で、怒鳴ったり蹴ったりする
原田さん。不思議な味の食事と、不機嫌そうにじっと見つめる原田さん……少しでも
残したら怒られるのじゃないかと、必死になって飲み込んだスープ。お腹が空き過ぎて
感覚が麻痺していたのだと気付いたのは、満腹になった後だった。
 小さくて蒸し暑い部屋を、小柄な体で飛び回る原田さん。疲れませんか?
暑くないですか? 僕の事なんて、放って置いてくれれば良かったのに。
 山田さんからのメールを見て、泣きそうな顔になっていましたね。いいんです。
もう、分かっています。僕はただ、確かめたかっただけなんです。
 窓から、朝日が差し込んでいる。もうすぐ、原田さんは目を覚ますだろう。
 手足を広げて、大口を開けて寝ている原田の顔を眺めた。奥歯まで見せて、とても
間抜けな寝顔だ。額に汗をかいて、やっぱり少し、不機嫌そうな。
 バルダッチーニは、原田の上にそっと屈み込むと、彼の鼻先にキスをした。しかし
次の瞬間には、そんな自分に驚いて身を離す。つい唇を舐めると、原田の汗の味がした。
 この動揺は、彼に対する裏切りだ。バルダッチーニは、あまりの事にふらふらと
立ち上がると、そのまま部屋の隅で膝をつき、頭を抱えてうずくまる。
 自分は、なんという愚か者だろう。
 ごめんなさい、原田さん。僕は今日、ロヴィーノに帰ります。
 山田さんの事も、幸せだった一年半の日々も、全て忘れて帰ります。
 ごめんなさい、本当に、ごめんなさい。
 でも、原田さんの事は、憶えていてもいいですか?
 そしてもし、もしも、原田さんが……

=====
 バルダッチーニは、腹に鋭い痛みを感じて目を覚ました。
「いつまで寝てやがる! あんたの耳は飾りか!」
 もう一発。今度は太ももを蹴られて、バルダッチーニは飛び起きると、傍らに立って
怒鳴る原田を見上げた。
「ほら、さっさとどけよ」
 次いで、体の下の布団を引っ張られ、慌てて畳の床に逃げる。一体、原田は何を
しているのだろう。
「ど、どうしましたか、原田さん。なんですか?」
 寝起きの回らない舌で質問すると、布団を抱えた原田が、背中越しに振り向いた。
「布団を干すんだよ。あーあ、畳まで湿ってるじゃねぇか。他人の布団で汗かくんじゃ
ねぇよ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、原田が狭いベランダへ消える。思わず付いて行くと
バルダッチーニにも原田の行動が分かった。鉄製の手すりに、上掛けと布団を並べて
真っ直ぐになるまで調整している。原田は、変な所で几帳面な男だった。
「あんたもな、たまには自分の部屋に帰ったらどうなんだ? 家ってのは、使わないと
悪くなるんだぞ」
「では、明日は私の部屋で、一緒に寝ましょう」
「なんでだよ。あんたの部屋まで掃除させる気か?」
 いえ、そういう意味ではなくて、ですね。
 言いかけたが、原田は既に部屋の中に戻っている。そのまま玄関を出ると、今度は
洗濯機を回し始めた。まったく、よく働く男だ。
 バルダッチーニはベランダの布団にもたれて、青い空を見上げた。
 生温い夏の風が、開け放たれた玄関から吹き抜ける。向かいに建つ背の高いマンション
では、ツバメがヒナにせっせと餌を与えている。
 部屋に戻ると、点けっぱなしのテレビから、天気予報の声が聞こえた。

 台風が、近付いているそうだ。バルダッチーニは、日本に来て何度目かの天気図に
見入った。細長い島に、渦を巻いて迫る嵐の形。夏の間、こんなものが何度も作られては
様々な方向へと流れてゆくのだ。
「こりゃ、関東まで来るな」
 その声に振り向くと、いつの間にか戻っていた原田が、すぐ後ろに座っている。
「ったく、夏休みに直撃かよ」
「また、去年のようになりますか?」
「かもな。ま、いいんじゃねぇの。この辺りには、でかい川も無いし」
 にっこり笑って、原田が頭を小突いてくる。
「良かったなぁ、ニコーラ。今度は、ちゃんと屋根があるもんな」
「……はい、そうですね」
 どうにか、声が出せた。原田が、こうして無防備に近寄る度に、バルダッチーニの
心臓は破裂しそうになる。毎晩のように押し掛けて、隣で眠っている時には平気なのに
彼の笑顔を間近にすると、つい、その小さな頭に、手が伸びてしまいそうになる。
「原田、さん」
「ん?」
「今日は、何をしますか?」
「そーだな……素麺でも食って寝るか。あんたも食うか、素麺?」
「はい、頂きます」
「よし。じゃ、夕飯も素麺でいいや。帰る前に電話しな」
 これは、出て行けという意味だろう。確かに、そろそろ出勤の支度をしないと不味い。
バルダッチーニの仕事は十時からだが、職場のダイナーまでは一時間近くかかるのだ。
 適当に挨拶をして原田の部屋を出ると、自室に入る手前で、一度だけ振り返る。
 原田さんは、おかしな人だ。

 ついさっき、家に来るなと怒ったのに、今夜は素麺をごちそうしてくれると言う。
 口調は乱暴だし、すぐに蹴るし、寝相も悪い。
 だけど、やさしい人だ。原田さんは、とても、やさしい人だ。

「おお、来たか。ちょっと待ってろ、もうすぐ出来るからな」
 事前に電話をしたからか、鍵の開いていたドアを開けると、台所から声がした。
見れば、ガスレンジに向かった原田が、焼き網の上で真っ黒な物体を転がしている。
「雨はどうだ? あんた、傘持って行かなかっただろ」
「大丈夫です、チーフにお借りしました……茄子ですか?」
「おうよ。素麺に、焼き茄子と大根おろしとネギ乗っけてな、つゆをぶっかけて食うんだ。
何杯でも食えるぞ」
「それは美味しそうですね。何か、手伝いましょうか」
「んじゃ、適当に麦茶でも出しといてくれ」
「ああ。それと、お土産を持ってきました」
 お土産の言葉でやっと振り向いた原田に、バルダッチーニはラップを掛けた深皿を
スポーツバッグから取り出すと、目の高さに持ち上げて見せる。
「ローストビーフです。端っこですけど」
「でかした! 俺はな、前から思ってたんだよ。ニコーラは出来る男だ、ってな」
 満面の笑顔で、原田が菜箸を振り回す。
「よし、それも素麺に乗せよう。俺は手が離せないから、あんたがやってくれ」
「茄子と一緒に、ですか?」
「いいだろ、別に。食っちまえば一緒だ」
 どんぶりからはみ出すほどの夕食を終える頃、窓の外で雷が光った。
 雷は、バルダッチーニと原田が並んで食器を洗っている間にも、徐々に近付く。
「おい、ニコーラ。カーテン開けて、布団敷いとけ。俺は風呂に入る」

 なぜか、そわそわと落ち着かない様子の原田に、バルダッチーニはピンときた。
「また、雷の見学ですか?」
「ったりまえだろ。ほら、急げって。雷が逃げちまう」
 この部屋で夏を過ごす内に、バルダッチーニは、こうして楽しそうにはしゃぐ
原田を数回目撃していた。どうやら彼は、雷が大好きらしい。
 確かに、日本の天候は目まぐるしく変化し、バルダッチーニも驚きを覚えるのだが
わざわざ観察しようという気持ちは、あまり理解出来ない。そのうえ、本音を言えば
雷が少し恐くもあった。どうして、こんなものが好きなのだろう。曇りガラスに反射
する光から目を反らして、何気なく振り返ったバルダッチーニは、目の前の光景に
思わず飛び退いた。
 アパートは、狭いワンルームだ。だから、畳の部分と、台所の板の間がそのまま
続いている。だから、風呂場も、すぐそこにある。だから……仕方ないのだが。
 これも、仕方ないのだ。バルダッチーニは、自分にそう言い聞かせつつも、目前で
展開されている全てから、目を離す事が出来なかった。いつもは最低限、下着を身に
付けている原田が……今まさに、全裸で部屋を横断している。
 タンスから引っ張り出したタオルを肩に掛け、凝視するバルダッチーニの視線にも
頓着せずに、原田は駆け足で風呂場へ消えた。ドアが音を立てて閉まり、ようやく
肌色の残像から解放されたバルダッチーニは、どきどきと高鳴る胸をシャツの上から
押さえる。
 考えれば、彼の裸を見るのは初めてだった。下着姿でも平気な原田から、意識的に
視線を逸らせていた事もあるが、何よりも、彼のころころと変わる表情に、自然と
目が吸い寄せられるからだ。
 細くて小さな尻は、両手に収まりそうだった。しかし、股間でぶらぶらしていた
ものは、なかなか立派だった。目を閉じても、その部分だけが思い出せるほど
脳裏にしっかりと焼き付いている。

 思わず、床に座り込んだバルダッチーニは、深呼吸しながら板の間の木目を凝視した。
駄目だ。このままではきっと、原田に殺されてしまう。
 どのくらい、そうしていただろうか。なんとか落ち着いたバルダッチーニはふらふらと
立ち上がって、原田に言われた通りにカーテンを開けた。風に舞う大粒の雨が窓を
叩き、近付いては遠のく雷が、向かいのマンションとの間で見え隠れしている。
 次の瞬間、ほぼ真上から轟音が響き、バルダッチーニは身を竦めた。
 やはり、雷は恐い。先ほどの事もあるし、見学は原田一人で楽しんでもらおう。
 昼間に干されて、ふかふかになった布団を窓際に寄せていると、あっという間に
風呂場から出て来た原田が、シーツの上にダイブした。
「おおー。すげえ」
 寝転がって、上半身を反らせた姿勢になると、原田が雷に歓声を上げる。
 よほど急いでいたのだろう、裸の腰にバスタオルを巻いただけだ。
「あの、原田さん……」
「ほら、あんたも見てみろ。すごいぞ」
「……いえ、その。今日は、ごちそうさ……」
「風呂なんかいいから、寝て見ろって。お、また光った」
 しきりに振り向いては、興奮した笑顔で手招きする原田に、バルダッチーニは仕方なく
布団の隣に座った。どうしよう。どうしたら、部屋に帰らせてもらえるのだろう。
「おい、届くなら電気消してくれ。よく見えないから」
「はい」
 素直に返事をしてしまい、またもやバルダッチーニは頭を抱えたい気分になる。
 天井の電灯から下がった紐を二回引くと、部屋は一瞬、真っ暗になったように感じた。
 しかしすぐに、窓から差し込む青白い明かりが、部屋の中を斜めに照らす。向かいの
マンションでは、多くの部屋が雨戸を閉めていたので、遠くの空で真横に走る雷までが
くっきりと見えるようになった。

 ふと、隣を伺うと、原田は雷にすっかり心を奪われている様子で、開いたままの口から
時折、おーとかなんとか呟くばかりだ。その横顔を眺めている内に、バルダッチーニの
頭は麻痺したようになった。
 先ほどまで、鳴る度に驚かされていた雷は、いつしか、間断なく続くフラッシュほど
にしか感じられなくなり、その中に浮かんでは消える、すらりとした体に目眩がする。
 原田の、濡れたままの髪から、一滴の水が頬へ伝うと、形の良い顎からぽたりと
落ちて、シーツに吸い込まれた。真っ白なタオルから伸びた素足や、反り返った背中の
曲線が、閃光に照らされて、誘うように揺れる。
 気のせいだ、と声がする。
 しかし、頭の隅の冷静な部分が発した警告は、空から響いた音にかき消されてしまった。
「……原田さん」
 行動は、一瞬だった。
 呼び掛けは、届かなかったのだろう。その証拠に、原田は目を見開いて、驚いた顔に
固まっている。
 掴んだ肩が動いた気がして、バルダッチーニは、仰向けにした原田に全身で伸し掛かると
今度は深く口付けた。半開きの唇に、吸い付くように何度も重ねるが、原田はされるままに
なっている。
「原田さん」
 囁いて、組み敷いた素肌に手を這わせると、原田の身体がびくりと跳ねた。
「な……」
 かすれた声が、濡れた唇からこぼれる。
「に、してんだ」
 呆然と見開かれていた目に、力が戻る。
「あんた、今……なに、したんだよ」
 殺される。

 バルダッチーニの全身に、強烈な寒気が襲った。思考が停止したようになり、胸が
破裂しそうなほど痛む。この痛みに、殺されてしまう。
「ニコーラ、てめぇ……」
 耐えられない。
 跳ねるように立ち上がると、バルダッチーニは部屋を飛び出した。そのまま、隣の
自室へ逃げ込むと、ドアに鍵を掛けて、その場に崩れ落ちる。
 なんて事を。
「……ああ」
 壊してしまった。彼を、裏切ってしまった。全身ががたがたと震えて、喉元から
堪えきれない嗚咽が漏れる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、原田さん……」
 どうしよう。どうしたらいいのだろう。幸せだったのに、傍に居られるだけで
良かったのに、何故、あんな事をしてしまったのだろう。
「許して下さい……原田さん……許して」
 泣きながら、バルダッチーニは何度も繰り返した。謝り続けて、情けない事に
眠ってしまうまで、呟き続けていた。
 そんな事をしても、過ぎた時間は取り戻せないと知りながら。

 携帯電話のアラーム音で、バルダッチーニは目を覚ました。
 頭の奥が、重い痛みに悲鳴を上げる。
 狭い玄関の床で、丸くなっていたバルダッチーニは、音の発信源を探そうと、だるい
体を持ち上げた。
 辺りは、埃っぽい空気に淀んでいる。閉め切られた部屋は蒸し暑く、全身に汗を
かいていたバルダッチーニは、ぼんやりと原田の言葉を思い出す。
 部屋は、放って置くと悪くなるのだ。まるで、人の心のように。
 アラーム音は不意に消えてしまい、バルダッチーニは、それ以上探すのを諦めた。

 シャワーを浴びても、服を着替えても、気分は少しも良くならない。
 原田の部屋と自室を隔てる壁に、視線が何度も泳いでしまう。
 すぐにでも、昨夜の事を謝罪しなくてはならないと、何度も思った。本当はあの時
あの場で、許しを請うべきだったのだ。殴られても、泣かれても……嫌われても。
 しかし、どうしても原田と顔を合わせる勇気が出ず、バルダッチーニは数十回目の
ため息をつくと、仕事の為にドアを開けた。
 ドアノブが、やけに重たい気がする。
 アパートの廊下に出ると、すぐにその理由が分かった。
 外側の取っ手に、バルダッチーニのスポーツバッグがぶら下がっている。そう言えば
自分は、鍵も財布も持たずに、どうやって仕事に行くつもりだったのだろう。
 原田はやさしいから、あんな事をされた後なのに、忘れ物まで届けてくれる。
 でも、きっと、この感情までは、許してくれないだろう。

「おい、バル」
 厨房で食器を洗っていたバルダッチーニに、先輩の一人が声をかけた。
「今日はもう閉めるから、先に上がれ」
「いえ、後少しなので……」
「いいって。家、遠いんだろ? 早く出ないと、電車が止まっちまうぞ」
「止まる?」
 何の事やら分からずに、バルダッチーニが首をひねっていると、厨房の裏口から
ずぶ濡れの男が飛び込んで来た。夜のシフトで働いている同僚だ。
「すっげー雨っすよ! こんなんで、客来るんですか?」
「来る訳ねーだろ。来ても、帰ってもらうよ。店仕舞いだ」
「マジっすか? 俺、聞いてないっすよ」

 バルダッチーニは、二人の会話を背中に恐るおそる裏口に近付くと、ドアを開け
ようとした。だが、ドアは何かに押されているのか、ひどく重い。力一杯に押すと
今度はドアごと外に引っ張られる。
「バル! 用も無いのに開けるな!」
 怒鳴られて、我に返ったバルダッチーニが手を離すと、駆け付けた先輩がドアを
閉めてくれる。
「台風だよ、たいふう。バル、台風初めてか?」
「あれ、イタリアって台風来ないんすか? バルちゃん、電車だろ。早く帰んないと
大変だよー。飛ばされちゃうかもよー」
 笑いながら脅かしてくる声も、バルダッチーニの耳を素通りしていた。一瞬だけ
見えた表の光景が、過去の記憶に重なる。
 そうだ、台風だ。あの日も、吹き荒れる雨と風の中、同じ光景をこの国で見ていた。
薄暗いゴミ箱の隙間で、震えながら、飛ばされそうになる傘の柄を握りしめて。
 小さなビニール傘を、無くしたくなくて。
 原田さんが落としてくれた、傘を。
「……すいません。私、帰ります」
 自然に、その言葉が口をついた。
 同意の声と共に、ロッカールームに追い立てられながら、バルダッチーニは急いで
服を着替える。帰らなくては。帰って、原田さんに会って、謝るのだ。
 許してもらえなくても、殴られても、嫌われたって構わない。謝って、そして。
 愛していると、伝えなくては。

 駅からアパートへと走る間も、雨はバルダッチーニの全身を濡らしていった。
 水を含んで重くなったジーンズが、焦る足をもつれさせる。通り掛った車が
盛大に水しぶきを浴びせてきたが、下着まですっかり濡れているバルダッチーニは
気にも留めなかった。前から吹き付ける雨が呼吸を苦しくさせて、周囲の景色も
ほとんど見えない。

 それでも、バルダッチーニは走り続け、駆け足のまま、アパートの階段をもがき
上がった。
「原田さん、居ますか!」
 ドアを叩きながら、中へ向かって呼び掛ける。居る筈だ。台所の曇りガラスから
明かりが見える。小さいが、テレビの音も聞こえる。
「原田さん、開けて下さい! 原田さん!」
 彼が居るのは確かなのに、返事が無い。バルダッチーニは、喘ぎながら廊下に
座り込むと、ドアの側に背中を預けた。取り落としたスポーツバッグが、腰の辺りで
つぶれている。
「開けてくれるまで、ここに居ます」
 荒い息の下で、それだけ言うと、バルダッチーニは空を見上げた。
 真っ黒な雲から、唸る風と共に雨が降り注いでくる。こんな空の下なら、いつまで
でも待てる、とバルダッチーニは思った。でも、もしも夜が明けて、あの日のように
空が晴れて……それでも、原田さんが手を伸ばしてくれなかったら。
 その時は、国へ帰ろう。
 全て忘れて、台風の来ない、ロヴィーノへ帰ろう。
「……嫌だ」
 また、逃げてしまうのだろうか。これまで、何度も逃げたように。
 また、忘れるのだろうか。こんなに、愛しているのに。
「いやだ……原田さん……好きです」
 忘れたくない。
「好きです……原田さん、愛してます……愛してる」
「こら、何をぶつぶつ言ってんだ」
 バルダッチーニは、ぎくりとして、声のした方向に振り向いた。

「せっかく家があんのに、まーたびしょ濡れになりやがって」
「はらだ……さん?」
 これは、夢だろうか。
 細く開いたドアから、原田の不機嫌そうな顔が、こちらを見下ろしている。
「原田さん」
「んだよ。そんな所に座ってても、拾ってやんねぇからな。言いたい事があるなら
自分で中に入れ」
 そして、ドアが閉まった。
 バルダッチーニは、呆然としてドアを見つめる。夢ではない。確かに今、そこに
原田が立っていた。自分を見て、話しかけてくれた。
 そっとドアの表面を撫でて、バルダッチーニは瞬きする。
 入っても、良いのだろうか。
 立ち上がって、ゆっくりとドアを開ける。恐ごわと、頭だけ中に入れると、テーブルに
肘をついてテレビを見ている原田の背中があった。
「そのまま上がるんじゃねぇぞ。床が濡れる」
 言われて床を見ると、玄関にバルダッチーニの服が置いてあった。泊まりに来る度
この部屋に置いて行ったものだ。
 濡れた服に苦戦しつつも、どうにか服を着替え、バルダッチーニは濡れた服とバッグを
玄関に放置したまま、原田に近付いた。
「……で、何の用だ?」
 背中を向けたまま、原田が低い声で問う。少し迷ったが、テーブルの向かいに腰を
下ろすと、バルダッチーニは原田の横顔を見つめた。
「原田さん」

「ああ」
「昨日は、すいませんでした」
「……何の事だ」
 バルダッチーニは、胃の辺りが重くなるのを感じた。
「は、原田さんの気持ちも考えずに、あんな事をして」
「知らねぇな。あんた、何かしたっけ」
 胸が痛くて、死んでしまいそうだ。
 原田は、昨夜の出来事を全て、無かった事にしようとしている。無かった事にして
忘れてくれようとしている。
 でも、僕は、それでは嫌なんです。
 視線が、自然とテーブルの上に落ちた。強張った原田の顔が、辛くて見ていられない。
「……私が、原田さんにキスをしたのは、好きだからです」
 絞り出した声は、自分でもおかしくなるほど震えていた。
「愛しているから、キスをしてしまいました。ごめんなさい」
 返事は無い。それでも、打ち明けた事によって、バルダッチーニの心は軽くなった。
ほんの、少しだけだったが。
「私は、原田さんを愛しています。でも、原田さんは迷惑ですよね。だから……」
「イタリアに帰る、ってか?」
 冷たい声に、バルダッチーニは驚いて顔を上げた。
 いつの間にか、こちらを向いていた原田が、恐ろしい顔で睨んでくる。
「ふざけんな。てめぇには、責任感ってもんが無ぇのか」
 突き飛ばされたテーブルが、バルダッチーニの腹に当たる。
「仕事はどうすんだよ。やっと形になってきて、はい辞めます、じゃ、雇ってくれた
人間に申し訳ないとか思わねぇのか? どうなんだよ!」

 今度は、拳が飛んできた。額を打たれて、バルダッチーニの体が心ごと揺れる。
「何とか言ってみろ! あんたは、前もそうだったじゃねぇか! 仕事も国も
放り出して、こんな所まで来やがって」
「原田さん……」
「生活するってのはな、生きるってのは、そんな簡単なもんじゃねぇんだよ。
てめぇも男なら、ちったぁ根性見せてみろ!」
 ああ、どうしよう。
 好きだ。大好きだ。この人が、本当に愛しくてたまらない。
「俺が好きだってなら、百年かけても落としてみせるぐらい、言ったらどうなんだ!
そんな事だから、山田にも逃げられんだろうが!」
「はら……」
「それとも、てめぇの好きはその程度か! 俺が怒ったら、尻尾巻いて逃げんのか!」
「原田さん!」
 バルダッチーニは、飛んでくる拳をかいくぐって、暴れる原田を抱きしめた。
「原田さん……愛してます。愛してます」
「な、なにすんだ、こら! 離せ!」
「嫌です。離しません」
「重いんだよ、潰れるだろうが!」
「潰れて下さい。もう、泣かないで」
 その一言で、腕の中の体は大人しくなった。力の抜けた原田の腕が、畳に落ちる。
「ごめんなさい。私が、間違っていました。愛してます、原田さん」
「な……泣いてなんか、いねぇぞ」
「ずっと……ここに、居てもいいですか?」

「……あー、まあ。勝手にしろ」
「原田さんを好きでも、いいですか?」
「い……いい、つーか。それは、俺がどうこう出来る問題じゃ、ねぇし」
「愛してます。本当に、心から愛してます」
「それは、困るんだけど……」
 だが、バルダッチーニの心は既に決まっていた。
 忘れたくないのだ。ずっと、一緒に居たいのだ。百年でも、千年でも一緒に居よう。
いつか、彼に愛してもらえるまで。
 抱きしめた肩は、冷えきったバルダッチーニには熱いほどだった。小さくて、細い
原田の身体。形の良い頭に顔を寄せると、石けんの香りと、汗の匂いが混じって鼻を
くすぐる。首筋に頬を埋めると、滑らかな肌が吸い付くようだ。
「おい、ニコーラ……てめぇ、何してんだ」
 原田が身を捩って逃げようとするが、バルダッチーニは、体格差に物を言わせて
それを押さえ込んだ。暴れる足を自分の両足で挟むと、原田はほとんど身動きが
取れなくなる。
「止めろって。なあ……本当に、苦しいんだけど」
「何もしません。何も、しませんから……でも、もう少しこのまま」
「してるじゃねぇか! って、おい!」
 脇腹を引っ掻かれて、バルダッチーニは仕方なく上半身だけ離した。
「てめ……なにおっ勃ててんだよ! 離せ、とにかく離せ、いいから離れてくれ!」
「大丈夫です。落ち着いて下さい、原田さん」
「馬鹿か、俺が大丈夫じゃねぇってんだよ!」
「大声を出すと、近所に聞こえます」

 散々騒いで今さらの事なのだが、原田は真っ赤になって口をつぐむ。
 その顔を両手で挟むと、原田はびくりと身を竦めた。涙の滲んだ目が、きょろきょろと
落ち着かなく動いて、視線が合うと、すぐに逸らされる。
「原田さん」
「な、なに……」
「私は、原田さんが大好きです」
「いや、それは分かったから、だな」
「原田さんは、私が嫌いですか?」
「……べ、別に……」
「聞こえません」
「別に、嫌いじゃねぇよ。そんなに見るな!」
 バルダッチーニは、もうこれで十分だと思った。嫌われていないのなら、好きになって
くれるまで頑張るまでだ。
「ほんとに、見るなって……目が……」
 原田の声が徐々に小さくなると、とうとう目を閉じてしまった。力一杯に顔を逸らせて
眉を寄せている原田に、バルダッチーニの胸が鳴る。
 十分だけど、あと少しだけ許して下さい。
 そして、歯を食いしばっている原田に、そっと唇を押し当てる。
 途端に、もの凄い力で突き飛ばされ、鳩尾に原田の踵がめり込んだ。
「出てけー!」

=====
 部屋の隅で、バルダッチーニは寝ている原田を眺めながら、何度も謝っていた。
 ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
 やさしくしてくれたのに。こんな僕を助けてくれたのに。

 原田さん、僕は今日、ロヴィーノに帰ります。
 原田さんに拾われて良かった。二日間、とても幸せでした。
 だから、原田さんの事は、憶えていてもいいですか?
 全部忘れても、あなたの事だけは、忘れたくないんです。
 そしてもし、もしも。

 次に会った時、原田さんが、僕の事を憶えていてくれたら。
 貴方を好きになっても、いいですか?

□ STOP ピッ ◇⊂(´∀` )幸せになっちゃえばいいと思うよ。

長々とスレを使ってしまいましたが、これで本当におしまいです。
お付き合い下さった皆様、ありがとうございました。

  • すっごい好きです!!!!!原田かわいい!!!! -- 2011-05-30 (月) 07:32:31

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