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おねがい、かみさま

※ナマモノ、死ネタ注意
焦点の紫緑のつもりが紫緑紫っぽくなりました。
紫が先代の鞄持ちだった頃から現代まで、緑夫人がちょっとだけ出てきます。
お盆と追悼の意味を込めて。
|>PLAY ピッ ◇⊂(・∀・ )ジサクジエンガ オオクリシマース!

「ご苦労さん、今日はもういいよ」
「は……ありがとうございます」

 足代がわりの駄賃とばかりにタバコ代の釣り銭を受け取る。
 かばん持ちのアルバイトを始めて久しいが、給金らしい給金がこの手に舞い降りる気配は露ほどもない。福神漬けをちょいと乗せたどんぶり飯をかっ喰らい、水をがぶ飲みした腹はいともたやすくねじれていく。
 賭け麻雀で稼いだ生活費もそろそろ底をつきそうで、レコードを売るか、古本をまとめるか、年上の女に甘えてみるかと苦肉の策が頭を駆け巡った。

「そうだ、せっかくだから紹介しよう。おおい」

 屈みながら羽織の中の薄っぺらい塊を揺さぶったので、それでようやく誰かが寝ているのだと知った。膝丈ほどの段差の上に並べた座布団に横たわってた体は細く、儚く、明らかに覇気がない。

「……気分悪いって言っただろ?」

 濡れ木で起こす焚き火よりもおぼつかないその声が、噺家のものだとは到底信じられなかった。

「なんだい、またメニエールとかいうやつかい?」
「ああそうだよ、いつも通りほっといておくれ」
「まあ、いいから。ほら、新しいかばん持ちなんだ」

 聞き齧った知識では、めまいや耳鳴りでまともに姿勢を保つこともままならない筈だ。
 いいえ僕今日は急ぎますのでとかなんとか煙に巻いて逃げさればよかったものを、手繰り寄せるかのごとくぐいと手首を掴まれたので、膝をついてその人の横顔を見下ろす格好となった。

「んー?」
「名門私立に通ってる秀才なんだよ、すごいだろう」
「よ、よろしくお願いいたします」
「ああ……よろしく」

 骨ばった肩から背骨にかけて鉄の糸を通して引っ張られたように起き上がる。肌は青白く、瞼を開けるのすら億劫な様子だったが、その顔立ちには見覚えがあった。

「あ、師匠」
「ん? 知ってくれてんのかい?」
「知ってるも何も、大スターじゃないですか」
「くすぐったいねえ、お世辞言ったって何にも出ないよ」

 病人に気を遣わせるべきではないと頭では理解していながらも、興奮を抑えきれなかったのもまた事実であった。付け入る隙を与えない丁々発止の罵倒合戦、歳に似合わぬ薄い頭、並みの女より匂い立つ所作。

「先日寄席で拝見しました、化粧の模写がなんとも見事で」

 実は都合が悪くて噺の途中で帰ってしまいました、などとは口が裂けても言えないので、鮮やかに思い出せるマクラの一幕を切り出す。
 あの動作のひとつひとつは昔懐かしい女郎の支度を外連味たっぷりに再現したものだったが、母も交際していた女たちも、果たしてみな似たり寄ったりであった。

「そうかい、嬉しいねえ」

 肩を震わせ、片目を瞑って笑う。あの女性が見せた微笑みとはまるで違う、度量の大きい男のものだった。

「素人がナマ言ってすみません」
「いやいや、お前さんみたいな人が素直に言ってくれるのが一番ありがたいんだ」

……でもね。

「お父さん、来てくれたわよ」

 開け放たれた襖の向こうから、真新しい棺の匂いが鼻腔を刺す。

「業者さんがね、綺麗にしてくれたの」

 やせ細った顔からは皺の影が消え、痛みと苦しみに歪んでいた目と口元は穏やかに閉じられ、乳白色のまつ毛が光る。

「……お師さん、お待たせして申し訳ございません。ご挨拶に伺いましたよ」

 曲がってしまった背骨もすっと伸ばされ、初めて会った時のままの背丈になった。深緑の着物に赤茶色の数珠が鮮やかで、白粉のはたかれた白い肌によく映える。

「ごめんなさいね、色々準備があるから、しばらく二人でお話ししてくれる?」
「よろしいんですか?」
「ずっと会いたがってたから、お父さんも喜ぶわ。帰る時に声かけてね」

 泣き明かしたと見える目元こそ赤く腫れてはいたが、さすがこんな時は年季の入った女の方がよほど強い。しっかりした足取りに頭を下げて、静かに閉められた戸に背を向けた。

「……遅くなってすみません」

 眼鏡を外し、レンズを介さない視野の中で輪郭を定めるために鼻先まで近づく。
 知人の勧めで得度したのは、思えばこの日のためだったのかもしれない。皺ひとつない袈裟も法衣も、できることなら真新しいまま箪笥の奥にしまっておきたかった。

「先代に続いてまた間に合わなかったなんて、私は前世でどんな悪行を積んだんでしょうね。知らせを耳にした後の高座なんて、これまでの人生の中で最もみっともなかったですよ」

 声は掠れ、目は潤み、腕の震えを隠すことに懸命だった。あの場にいた客の全てが事情が事情と受け入れたとしても、自分で自分を殴りつけたくなるほどの出来栄えだった。板の上に犬猫でも放った方がずっとマシだっただろう。

「もう酸素も必要ないんですね、よかった、身軽になれて。先代や家元とはお会いになりました?」

 骨に皮が張り付いただけの限界まで痩せ衰えた輪郭の描線は、春の日差しのように柔らかい。

「明後日の追悼番組は生放送なんですが、無いこと無いこと喋っても構いませんよね?」

 いくつもの管に繋がれ、何かを飲み干すことすらままならないほど弱り切っているというのに、冗談を挟まないではいられない矜持の眩さを思い出す。

「……何か言ってくださいよ」

 几帳面に閉じられた襟首に指を添え、目鼻の窪みを涙で汚した。

「……でもね、お前さん」

 血迷ったのだ、と思った。
 夜道に揺れる灯篭のようにふらふらと前のめりになって、あの時分に着倒していた安物の綿のシャツの上から手を添えて胸をなぞる様が、あまりにも艶かしかったので。これが女郎の手練手管でないというなら、男の皮を被った目の前の生き物の正体は一体全体なんだというのか。
 鼻にかかった低くも甘い声が耳をくすぐる。

「あたしに惚れちゃあいけないよ……全部寄席の幻なんだから」

 絹の織物のような手を胸を打つ早鐘で傷つけてはいけないと後ずさろうとしたが、無様に尻餅をついただけだった。

「痛っ!」
「おい、大丈夫か?」
「ダメだよ、あんまりからかっちゃ」
「ごめんごめん、あんまり二枚目だからさ」

 自分の醜態が良薬にでもなったのか、幾分か血の気の戻った顔に屈託のない笑みを浮かべながら、丸い缶に収まったタバコを取り出して火を点ける。

「言っとくけどね、こいつはモテるよ。この間もどこぞのタニマチの娘さんが……」
「師匠!」
「おやおや、抜け目ねえな」

 片手をついて横座りになり、白い煙を燻らせる姿は、さながら吉原の高尾太夫といった塩梅で。

「だからさっきのはあれだ、お前さんがあんまり色っぽいから参っちまったんだよ」
「本当かい? 役者にでもなろうかね」

 今度はいかにも噺家といった具合に、語尾にたっぷり蠱惑的な色合いを孕ませ、茶化すように流し目をよこす。むせ返るほどのまやかしの芳香が鼻から喉に突き抜け、骨の髄まで真っ赤に染め上げた。
 取り返しのつかない火傷のような、とめどなく血が噴き出すような、それでいて花が綻ぶように甘美で目の眩む心持ち。

「何か言ってくれよ……噺家が黙りこくってどうすんだよ!」

 慟哭と呼べるほどの声は出なかった。腹も舌も夕暮れの朝顔のように萎れている。

「あれもやりたいこれもやりたいって、全部やり終わるまで死なねえって言ってたじゃねえか! お客さんが待ってんのに、何呑気に寝てるんだよ!」

 棺の淵を握りしめ、手のひらを胸の上に滑らせる。もう何の音も刻むことのない頼りない抜け殻は、冷房のきいた室内で微かに冷えたままだった。
 共に行けたら、行けるものだと盲信していた。この人の芸への執念、この人への自分の思慕、それを秤にかけたら丁度同じくらいだろう。だから道連れにしてくれるだろうと。

「あんだけ水先案内人にするって言ったのに……結局ひとりぼっちじゃねえか」

 この体に温もりがあれば、何と返してくれただろう。犬じゃあるまいしうるさいんだよと苦笑いを浮かべながら、髪を撫でてくれただろう。勝手に殺すんじゃないよ番組じゃあるまいしと冗談めかして答えてくれたかもしれない。或いは……或いは……。

「俺ん中こんなに弄って……何で勝手に行っちまうんだ」

 よほど上等な化粧を施したのだろう。濡れそぼった肌はまだらになることなく、雪原のようにどこまでもまっさらだった。もう一匙ほどの苦悩も痛みも責務も抱えることのない、安らかなかんばせ。

 病に侵食された姿に寒気がしなかったと言えば嘘になる。
 夜景を肴に紫煙をくゆらせた春、異国の開放感にはしゃいだ夏、夜気をまとった紅葉にため息をついた秋、指先を擦り合わせながら稽古する横顔に見入った冬。健やかな日々の贅沢を知ってしまえば、痛々しさを覚えないはずがない。
 だがそれ以上に、背筋を伸ばし、体を引きずり、息苦しさにぎ、それでも高座にしがみつく様を美しいと感じてしまった。この人が醜く、無様だというのなら、何がこの世の宝となるのだと純粋な疑問が首をもたげた。
 魅入られてしまった。己が才にも人々の温かさにも溺れることなく、ただひたすらに泥くさく孤高の道を貫く背中に。半世紀にはわずかに足りない歳月が、体にも心にも沈み込んでいる。

「……本当に因業なジジイだよ、あんたは」

 懐の手ぬぐいを取り出して、自分の涙で汚れた顔を拭う。
 この人の情念、矜持、思い出が詰め込まれたこの体を、おざなりに扱うわけにはいかない。今日明日で声を枯らすわけにはいかない。他の何よりも恋い焦がれた、今際の際まで固執した高座が、寄席の客が待っている。自分が噺家を続ける限り、この人の魂は何度でも蘇る。

「私がこんなにみっともなく泣きわめいたの、内緒にしてくださいよ」

 眼鏡を掛け直して手を合わせた。お題目は唱えなくていい、自分の心の中でこの人は生き続けるのだから。

「……行って参ります、どうか見守っていてください」

 落語の神様の頬を撫でると、心なしか口元が緩んだ気がした。

「役者なんてやめときなよ、カツラで蒸れたらますます頭が寂しくならあね」
「うっせえんだよ!」
「師匠、次はいつ高座に……」
「そんなにあたしに会いたいのかい?」
「いえ、なんとなく」
「そんなモジモジしてねえでさ、お前さんも噺家になりゃいいじゃないか」
「おい、インテリのエリートを巻き込むなよ」
「この人にこのまま弟子入りしちまいな、そしたら手取り足取り教えてやるよ」
「それは……」
「なんだい?」
「……そんな幸福に耐え切れる自信がありません」
「はっはっ!……いつでも来なよ、あたしはここにいるから」

□ STOP ピッ ◇⊂(・∀・ )イジョウ、ジサクジエンデシタ!
ナンバリング間違えました、すみません……。

  • 泣けました。やっぱり緑師匠は偉大だった。この二人の関係は好きです。 -- かお丸? 2018-08-18 (土) 01:31:53
  • あなた様の紫緑をずっと拝読してきました。相変わらず素晴らしい。またここで読めることができて、心の底から嬉しいです。 -- 井戸? 2018-11-29 (木) 03:33:22

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