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渡る浮世

※ナマモノ注意、枯れ専注意
たびたびすみません、昇天の紫緑です。
時系列は緑が勇退を他の出演者に報告した今年の頭くらいで。
あんまりこちらに連投し続けるのも忍びないので、続きは支部かオフラインか、とにかく別の場所で発表しようと思います。
何とぞよろしくお願い申し上げます。

|>PLAY ピッ ◇⊂(・∀・ )ジサクジエンガ オオクリシマース!

 医学書をめくるのが習慣になった。知人を伝って専門医にも訊いたが、相変わらず明るい文言は出てこない。
 なぜ服や手拭の貸し借りのように寿命や肉体の健全さをやり取りできないのだろうと、浅はかな想いばかりが募る。
後生だから、あんたの痛苦の半分だけ、俺に今すぐ寄越してくれ。

 「思い直しませんか?」

 ただでさえ病的な痩躯は限界までやせ細り、大仰でなく生きているのが不思議なくらいだったが、遠くへ行くなという医者の忠告を柳に風と受け流し、高座に指導に番組にと打ち込む姿にすっかり忘れていたのだ。
 万物に終わりはつき物で、この人もひとりの人間であるということを。

 「へっへっ。あんたはネタがなくなるからねえ」

 いつもは頼もしいはずの、骨ばった肩を震わせる姿が、今はとにかく痛々しくて、ストールを羽織らせながら正面に回った。好々爺然とした目の奥に、かすかな戸惑いが見え隠れする。

 「真面目な話です」
 「言った通りだよ、あたしだってよくよく考えたんだ。それこそ、スタッフの皆さんや協会の人とも何度もよおく話し合ってね」

 止められはしまい。ただでさえ大病を抱えた老体を引きずりながら東奔西走しているというのに。番組の顔として笑い、派閥の間をとりもつ仲裁役として振る舞い、ひとりの噺家として板の上に立ち続けるその裏でどれほどの苦悩を抱えているか、誰もが知っているのに。
 それをおくびにも出さないのは噺家としての矜持で、せめて楽屋だけでも本音を吐露してはくれまいかと思っていたが、当の本人は「暗い話をすれば卑屈になる。それはお客様にも伝わる」と冗談以外許してくれない。
 現に、自身の引き際を話して頭を下げた直後の張り詰めた空気も「つきましては今後上納金を……」と、おきまりのサゲでことごとく崩してしまった。
 隙のない手練手管でやり込められる清々しさも、あと半年も経たないうちに味わえなくなるのだ。

 「……もうね、これ以上は無理なんだ」

 2人きりの今なら、きっと心もほぐれるのではないかと願っていた。そしてそれは珍しく、悲しいほどにいともたやすく成就された。
 車椅子のなかで小さな背中が崩れ落ちる。

 「迷惑はかけられないよ。やれ倒れただ、入院だって、司会や高座の代演をお願いして。ほうぼうに駆けずり回るみんなを見てちゃね」
 「誰も迷惑だなんて思ってません。師匠にいてほしいというのは、私たち全員の願いなんです。スタッフやお客さんだって」
 「……だからこそだよ」

 朽ちるのを待つ枝葉のような指が震えていた。懐から取り出した手ぬぐいに、灰色の水玉模様がぽつぽつと滲む。

 「みなさんが求める姿のままお別れしたいんだ。これ以上みっともなくなって、ますます人の手を借りるのはいたたまれない」

 この人の涙を見るのは何年ぶりだろう。収録で、地方の仕事で、私生活でもうんざりするほど共にあったというのに、いつ何時もため息の漏れるほど艶やかな所作や、片目を瞑って笑うくせしか思い出せない。
 あれほど充足した時間が、これからも訪れるだろうか。

 「これはあたしの我儘だから、本当に申し訳ないと思ってる。でもそうでもしないと、噺家だって辞めなきゃいけない」

 こと入退院を繰り返すここ数年は、よくもまあ飽きもせずぽんぽんぽんぽん病魔に取り憑かれますねえなどと軽口を叩きながらも、この人の存在をどれだけ多くの人間が待ち望んでいるか思い知らされた。
 この人の我儘は、裏を返せば国民の我儘といってもいい。いつまでも出たいと願えば、出演者も制作陣も喜んで走り回っただろう。少し休むと申しひらけば、客も身を案じながら素直に待つだろう。
 しかし、人の上に立つ器量を持ち合わせ持ちあわせるこの人は、何においても自分に厳しい。長生きしてください、元気でいてくださいというありのままの激励を優しく受け止める一方で、思い通りにならない我が身を呪っていた。
 自分の手ぬぐいで光の乱れる目元を拭うと、ようやく顔があげられた。こんな状況にあっても言葉がつっかえることはなく、一度唇を閉じた後で、指先を頬に伸ばしてゆっくりと眦を下げる。

 「……お前さんはね、あたしの友で息子で仲間で、先代の忘れ形見なんだ。そんなあんたに、情けないとこ見せたくないんだ。どうか、かっこつけたままおさらばさせとくれよ」

 いつの日もその口跡は、淀むことのない川のようだ。耳も目もたちまちに奪われる。浮世のしがらみをすべて断ち切って、この人の口演の住人になりたいと願う思いが、カラカラと音を立てて回り続ける。
 俺は一体、この感情をなんと呼べばいいのだろう。

 「今生の別れみたいに言わないでください。何十年も前から、私は師匠とずっと一緒だって言ってるじゃないですか」
 「……そうなんだよ、自分でもわかってるんだ。二人会でもなんでも、あんたと一緒にやる機会はこれからだってたくさんあるはずなんだ。……なのに」

 高々と山積された研鑽の日々をそのまま杖にしたような気性だけでこれまで耐え忍んできたこの体には、愛想のいい芸妓も、口うるさい女房も、間抜けな与太郎も、情に厚いご隠居も、小言の多いじじいも住んでいる。
 50年近く前の出会いから、言葉を交わし、高座の姿を眺めるごとに、万華鏡のように姿形と色を変え、その度に心を奪われた。
 今さら、離れられようもない。

 「……すまないね、こんな顔するはずじゃなかったんだ。あんまり、思い出が多すぎて」
 「私だって同じです。師匠がいなければ、この番組でも、ひいては噺家としても、どうなっていたことか」

 頬に添えられた右手に自分の左手を重ねる。この熱が病魔を燃やし尽くして仕舞えばいいと、そしてこれから先も延々と求められるまま、求めるままにバカバカしいやりとりを演じ続けたいと、先ほど言い渡された決心を此の期に及んで受け止めきれない自分の弱さに驚いた。

 「本当はね、少しだけ悩んだんだ。あたしとやりあうとなったら、周りからあいつと比べられちまうから。それでも堂々と噛み付いてくるあんたがかわいくて、あたしだって何度助けられたかわからないよ」

 差し出された厚意にまんまと甘えて、今は亡き好敵手の後釜に居座る形となり、同業者や客に「あんたじゃ代わりは務まらないよ」と散々揶揄された時代もある。
 その度にこの人は「そうかもしれませんねえ、おっ死んだオバケと性根の腐った腹黒じゃあ使い勝手が違いますし」と軽くあしらってくれた。自分は自分で「そうかもしれませんねえ、私は師匠のことを心の底から愛していますから」と吐けばよかった。
 相手が目を点にして閉口するまでが様式美に組み込まれ、多幸感で胸が満ちた。あのまばゆい日々、古くも色あせない記憶。

 「今まで本当にありがとう、老いぼれの醜態を許しておくれ」

 細い手首の頼りなさに胸がしめつけられる。

 「……お父さん」

 小さな頭を袖で隠すように胸に寄せた。すすり泣く声が闇に落ちて消える。
 菊之助、俺の菊之助、他人様の庭に咲く花。父よ、師よ、かけがえのない友よ、凛とした横顔の描線のたくましさよ。

 「何度でも言います、私とあなたはずっと一緒です。たとえ火の中水の中、地獄の底、天国の果てまでも。あなたが無になるというのなら、私も無になりましょう」

 最初はあなたの演じる女に、やがては噺家としてのあなたに、そして男としてのあなたに翻弄され続け。
 そうか、初めから素直に恋と認めればよかったと、今この瞬間ようやく思い至った。

 「絶対に、ひとりにはしません」

 後生だから、あんたの痛苦の半分だけ、今すぐ俺に寄越してくれ。もし全部もらったら、俺の方が先に逝っちまうだろうから。

□ STOP ピッ ◇⊂(・∀・ )イジョウ、ジサクジエンデシタ!

それではこれにて一旦お開き!
続きはまた別の場所で!

  • 番組を降りられてから暫く経ち、二人のやり取りを恋しく思っていたところ、この作品をお見かけして読ませていただきました。懐かしい気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。 -- ? 2017-12-10 (日) 17:04:16

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