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語るも夢

※ナマモノ注意、枯れ専注意
昇天の紫緑です。
時系列は218〜の「地獄雨でもどこまでも」と228〜の「今じゃ異名も」の間と、後者の回想シーンも入っております。
紫の視線が完全に犬のそれだったのと、緑の一人称がたまに「俺」になるのがどうしようもなく好きで執筆しました。
連投して申し訳ないですが、何とぞご容赦を……

|>PLAY ピッ ◇⊂(・∀・ )ジサクジエンガ オオクリシマース!

 電球の切れた和室の窓枠に腰掛け、満月にすっぽり輪郭を収めてタバコをふかす姿の、きりりとした男らしさと、骨太なたおやかさ。
 ああ、弁天小僧菊之助か。

 「さすりましょうか?」

 花の茎のようにぴんと伸びた背筋がいつの間にかゆるやかにしなり、先日還暦を迎えたこの人は、片目をつぶって腰をさするのが癖になった。

 「気持ちだけで十分だよ、ありがとう」

 しわの増えた顔が歪み、愛用のジッポでピースに火をつける。

 「師匠の機嫌とらなくていいのかい?」
 「年寄りは敬えってのが一門の掟なんでね」
 「俺の方が歳下だっての」

 実を言うと最初の最初だけ「お前はどっちが大事なんだい?」と小言をくらったが、甘いものを差し入れておけばたちまち黙ると知ってからは造作もない。
 寄席ではこうも行くまいが、この番組特有の穏やかな空気に助けられた面もある。

 「しかし、お前も歳とったね。俺はそのくらいの時にはもう孫がいたもんだけど」

 高々と積まれた藍色の座布団と白い肌の拮抗に目がくらみそうになったので、まばたきを繰り返した。

 「私も、こんなに長続きするなんて思いもしませんでした。師匠のおかげです」
 「いくらネタにしていいっつったって、こんな何十年もくそ真面目に続けるんだから、頭のいい人の考えることは違うねえ」

 嫌味のようにも取られかねない言葉の端々に、慈愛がにじみ出ていることを何人の人間が察してくれるだろう。
 若い時分から懐の深さで慕われているこの人の隣に選ばれた時は驚きと恍惚感に呆然として、一生分の運を使い果たしたと思った。
 今や丁々発止の罵倒合戦は名物のひとつに数えられているが、打ち合わせをしたことは一度もない。お題で配られたもろもろを前に顔をしかめ、あるいは扇子を杖のようについて熟考する横顔をいかにして振り向かせるか。
 視聴者や観客の無言のうちに訴えかける要望に応えるのと、自分のむき出しの欲望とが半々に入り混じった目配せを無事に受け止めてくれることを願って、なるべく平静を装ってけしかけているだけだ。
 どこぞの女学生のような気恥ずかしい感情を、この人は知ってかしらずか常に手を抜くことなく真正面から受け止めている。時に淡々と、時に片眉を上げて、時に天敵の気配を感知した鳥のように体を震わせて。

 「師匠が毎度毎度律儀に返してくれるから、ついつい甘えてしまうんですよ」

 様式美と化したほんの束の間のやりとりの中でだけ、独り占めできているような心持ちになる。この舞台に上がりさえすれば、この人は誰の師匠でもなく、父や夫や祖父でもなく、たったひとりの噺家で、戸を叩けば鋭敏かつ柔軟に応えてくれる。
 このひとときだけはたったふたりきりだという幸せな欺瞞に満ちた、この胸の内をなんとしよう。

 「いけない人だよ、剣呑剣呑」

 煙を吐き出す細い喉と、肘先を支える立膝の具合の悪さに、自分の目にやり場のない熱がこもっていくのがわかった。
 芸の道であれば、瞬きする程度の短い間でも心と体がこちらに向けられるのに、どれほど体温を分け合っても、決してこの人は自分のものにならないのだ。

 まだ酔いの残る脳みそが最初に捉えたその画角には、皺だらけの浴衣を無理やりまとって、窓枠に片足をかけた行儀の悪いその人が、タバコの火をぼんやり見つめる姿があった。

 「起きたかい?」
 「私は、なにを……」

 酒に焼けた声は途切れ途切れで、狼狽と恐怖で震えていた。おぼろに浮かぶ記憶の水たまりに映った景色の、天国にも似た絶望を踏みしめる。

 「覚えてねえのか?」

 顎を掴まれてぐいと顔を寄せる格好になって、張り倒されるか幻滅されるか破門されるかと逡巡するばかりの頭の片隅で、目の前にあるのが虚実皮膜の向こう側にいる生きものだとしか思えなくて、ゆっくりゆっくり喉が鳴った。

 「知らざあ言って聞かせやしょう」

 ああ、菊之助だ。菊之助がここにいる。

 「……この助平、与太郎、腹黒の音痴」

 かすん、と間抜けな音がして、タバコの箱で頭を叩かれたのがわかった。

 「女に不足はねえだろうに、なんてことしてくれてんだよ」
 「……すいません」
 「ぶるぶる震えてる暇あったらとっととそのイカくさい体洗ってこい」

 それでようやく、自分が情けない格好のままで寝入ってしまったことや、薄い髪が湯上りでかすかに濡れそぼっていることがわかった。

 「師匠、あの……」
 「あ?」
 「私……私は」
 「俺が告げ口するようなケツの穴の小せえ男に見えるか?さっきからお前のせいで痛くて仕方ねえよ」

 帯のあたりを撫でながら箪笥の中をあさり、バスタオルを取り出すとお互いの頭を覆うようにかけて、体を引き寄せるようにその端をぎゅうっと握りしめた。必然的に鼻先が触れる。

 「いいか、誰にも言うんじゃねえぞ。もしバレたらかみさんが出刃庖丁持ってお前の腹かっさばきに行くからな」
 「……はい」
 「よしよし、いい子だ。あとはもうちょーっとだけやさーしく抱いてくれたら文句なかったな」

 くつくつと漏れる笑い声に、一瞬盛大な勘違いをしてしまいそうになった。この人が散々苦楽を共にした家族をどれだけ愛しているかなんて、わかりきっているのに。

 「……善処します」
 「おえらい先生方みてえなことしか言えねえのかよ」
 「恥ずかしいんです」

 じっとりとこちらを睨めつけていた視線の、触れれば切れそうな艶やかさに殺されてしまいたいと、そんな無様な思いで身の砕けそうな自分が。

 「次の収録は頑張れよ。……俺をネタにしていいから」

 タオルと自分の髪の間に手が差し込まれ、乱れた髪の上を滑る。親と呼ぶには近すぎて、兄というには遠すぎて、師と敬うには危うすぎるこの人の黒目に映る自分は、捨てられることを恐れる犬っころが精々だった。

 「……ありがとうございます」
 「その代わり、滑ったら上納金持ってこい」
 「剣呑剣呑」

 あれもすでに20年近く前の記憶だ。
 あれから幾度か体を重ねたが、じっと耐えるように息を漏らして感じ入る体を暴いても、一度たりとも心の内まで辿り着いた気がしない。妻の愚痴、娘の相談、孫の成長譚を感情豊かに語る横顔を見ていると、すべてが虚しい幻のように思えてくる。
 ほんのしばしの間だけ心の通い合う奇跡があるとしたら、やはりこの番組だけだ。冷静沈着に噛み付けば、いつぞやの凄艶な睨眼にぎりぎりと縛り付けられ、お決まりのくだりがばしっとはまり、座布団をとりあう頃には小さきものを愛でるようなあの笑顔が待っている。

 「私は師匠の飼い犬ですよ」
 「おお、そうだったのかい!クロや、お手」

 それでいい、他に何を望む必要があるだろう。

 「わん」
 「ふふっ、いい子だ」

 まだ長命のタバコは無残に潰され、乗せた手を軽く握られたまま頭を撫でられる。
 首に縄をつけるよりもたやすい心の捉え方を、この人は生家で学んだのだろうか。そうでなくては、こんなにも心の臓が乱れに乱れる道理が見当たらない。

 (知らざあ言って聞かせやしょう)

 ああ菊之助、応えておくれ。
 どうかその手を差し出してくれ。
 宵の淵なぞ怖くもないさ。
 お前の目だけが灯籠だ。

□ STOP ピッ ◇⊂(・∀・ )イジョウ、ジサクジエンデシタ!

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