夢の終わるところ
更新日: 2011-04-24 (日) 16:50:09
日本フォモ協会ドラマ「チェ椅子」 晴馬×群雲
ネタバレ有りなので、再放送で視聴予定の方は注意。
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少し滴の垂れている髪のまま現れた彼は、今まで纏っていた何かを脱ぎ捨てたかのように清らかだった。白い肌の上には紅い痣が闘争のしるしを残していた。顔色は、暗さを増した部屋の中で青ざめても見えた。
清潔そうなシャツの左の袖口に質量はない。
事故の傷がまだ痛むのか、ゆっくりした歩みはややアンバランスだ。
物憂げに、群雲修辞は視線を運び、こちらへと向けた。
「お先にいただきました。晴馬さんもどうぞ」
晴馬走輔はソファの一つに陣取ったまま応える。
「俺はいい。顔を洗ったからな」
「心配ですか」
と、唇だけで微笑む。
「大丈夫ですよ。逃げたりはしません」
「いや、そうじゃない」
図星を突かれて慌てる。
「じゃあ入らせてもらうよ」
立ち上がり、すれ違いざまバツの悪さをごまかすために、
「まだ濡れてるぞ。ちゃんと拭いとけ」
群雲の髪を乱暴に混ぜると、彼は嫌がるようにわずかに眉を寄せて首をすくめた。
逃げたりはしない、と群雲は言ったが、晴馬は半信半疑でいる。
だが、半分は信じているのだからずいぶんと心境の変化があったものだ。昨日までの自分なら髪の毛一筋も信用しない。
その原因のひとつには、自分がここでこうして彼と相対し、目的を果たしたことにある。自分は正義を行使するために来たのではない。気の済むようにしたかっただけなのだ。今となっては彼が行方をくらましたところで一向に構わない。
もうひとつは群雲自身にあった。以前の彼は底知れぬ深淵を見据えたような目をしていたが、今の彼にその影はない。
おそらく、終わったのだ。
自分と彼との、彼と世界との長い長い戦いが、ここで、すべて。
十分ほどでバスルームから戻ると、群雲はリビングにいなかった。
リビングから連なるバルコニーに、日が落ちた海に向かい、風に髪を乱されながらぼんやりと佇む姿を認める。
横に並んだ。
タックスヘイブンのこの島には、世界中の富豪の別荘や邸宅が集っている。それらを見下ろせるこのバルコニーからは、彼らの誇る豪奢な人工庭のライトアップされた光が地図に付けられた印のように夜景を形作っている。
海岸のところどころに灯されている照明は砂浜に立てられた椰子の葉の傘を照らし、その下では若者たちが寄り添って歩いている。
白く泡立つ波打ち際の向こうには、光を吸い込んで黒々と揺れる海原。
海山との境界線だけを藍色に染め残した空で、東京にいては見られないほど多くの星がすでにまたたき始めていた。
しかし、群雲の目はそれらの何をも映してはいなかった。
捕らわれ続けていた過去と、光なき未来との狭間にある、現在という不安定な足場の上に立ち続けるしかない迷い人の横顔。
それでも。
正気に戻っただけいい。
晴馬は思う。
深い放心の中をたゆたっていた視線が、気配を捉えた。
幻想から現実へと浮かび上がってきた揺らぎのない瞳が晴馬の顔に留められる。
「俺は逃げない」
「ああ」
晴馬はうなずく。
群雲は目を逸らすと、強くなる風音と吐息に隠すように何かをつぶやいた。
「え?」
訊き返す晴馬に答えず、地平の遠くへと視線を移す。
「夢のようだ」
独り言ちる。
「ずっと、夢のようだった」
群雲はうわ言のように繰り返す。
「あの時からずっと。奈良、大阪、東京、シンガポール、香港、カリブ。嫌な匂いのする綺麗な夢だった。息苦しいほど懐かしい、ただの悪い夢だった」
「お前」
止めようと触れた肩の冷たさに、晴馬は思わず手を離した。
「夢の中で俺は溺れてた。どちらが上かもわからずに、いつまでも」
「もういい。夢は覚めたんだ」
群雲は冴え冴えとした目を晴馬に向けた。
「夢の中の人間は夢が覚めたらどこへいけばいい」
晴馬は言葉に詰まる。
それを見ると、群雲は怖ろしいほど優美な微笑を浮かべた。
「何か飲みませんか」
テーブルには五本のボトルが並んだ。
晴馬はエチケットを確認する。
「ロマネコンティ、モンラッシェ、シャトールパン、スクリーミングイーグル? 一財産だな」
「ワインがお好きですか」
「高級ワインの相場ぐらい知ってる。査察官は目利きができなきゃ務まらない。金はいろんなものに化けるからな。俺はビール専門だ」
「あいにくとビールはありません」
群雲はグラスと氷を置くと、絆創膏を晴馬に手渡し、
「血が出てる」
自分の頬骨のあたりを指でつついた。
晴馬が手当をしている間に群雲はロマネコンティを抜栓した。
「このボトルは?」
「ラムです。カリブの特産品ですよ」
ワインを注ぎながら上機嫌に言う。
それぞれグラスを取り上げ、顔の前に掲げる。
群雲が言う。
「晴馬査察官の大手柄に」
一瞬考え、晴馬が返す。
「群雲修辞の大失敗に」
しばらく前から群雲は無口だった。二人でロマネコンティを空けたあと、モンラッシェを抜栓して少し飲んだだけで、彼はラムのボトルを開けて飲み始めた。酔っているのか、ロックグラスの氷を回し融かしながら、時々思い出したように口をつけている。
「なあ群雲」
晴馬はグラスの底のワインを飲み干し、話を切り出した。
「お前は利口だし、才能もある。今回のことで懲役を食らったとしてもせいぜい六年だ。こっちに出てきて十分やり直せる。お母さんを引き取って一緒に暮らせばいい」
群雲は不審げな顔を見せた。
「変わるのは苦しいかもしれない。不安かもしれない。だがな、変われない人間なんていないんだ」
彼は再び視線を落とした。アルコールに濡れた唇が動く。
「どう終わるのがいいのか、まだわからないんです」
「罪を償えばきれいな体になれる。どうしようもなく辛くなったら、その時は、俺を頼れ」
その言葉を聞いて、少し微笑む。
くるくると氷をグラスの中で滑らせていた彼は、おもむろに口を開いた。
「カリブは夢のようなところだ」
晴馬は黙って次の言葉を待つ。
「裕福なのは外から来た者たちだ。美しい自然も、文化も、彼らを楽しませるためのものだ。裕福な者にとってここは楽園だ。俺はここで夢を見ていたかった。でも無理だった」
手の中でカラリと氷が鳴る。
「夢の子供に夢は見れない」
彼は自嘲の笑みを浮かべた。
晴馬は彼に向き直り、まっすぐに見つめて言った。
「夢から覚めても、お前はお前だ」
「優しいな、あんたは」
無感動につぶやいて、気怠げに瞬く。
酔いが回ったせいか紅さを増した目尻の痣がうごめいた。
そこに光るものを見出して、晴馬は注意を向ける。
「血が出てるぞ」
「え?」
ほら、と手を伸ばす。
だが、指先が触れたものは血ではなかった。
気付いて思わず彼を見ると、少しだけ見開いた目が近くで見ないとわからないほどに濡れている。
晴馬は息を飲んだ。
これは群雲修辞ではない。
三十四年前、誘拐され、腕を切り落とされ、震えて助けを待っていた、沢邑芳矢がそこにいた。
母親が見た残酷な夢の代償に、自分の夢を見失った、あの日の少年だった。
傷つきやすい無垢をむき出しのまま、瘡蓋のように狂気をまとい、自分を守り続けて生きてきた、一人の悲しい少年だった。
彼は声も立てず、身動ぎもせず、救いを求めるように晴馬を見つめ続ける。
晴馬はその濁りなく黒い目に吸い込まれるような感覚に陥った。
彼の瞳は深い海のようでどれほど近付いても底が見えない。
彼の体温が手の中にある。
彼の白い肌が艶めく。
彼の吐息を頬に感じる。
たちのぼるラムの香り。
潤んだ唇が灯りを映して光る。
その奥にのぞく桃色の舌先。
晴馬は、時を忘れて見とれた。
群雲がわずかに身を起こした。
熱を持った唇が触れる。
彼の右腕が晴馬の首に回される。その手に握っていたグラスがこぼれ落ちて床の上で砕けた。
滑らかで柔らかい唇が、急くように吸い付く。
晴馬は彼の髪に指を挿し入れ、仰け反る頭を支えながら、迷い出た小さな舌を受け入れる。
絡め、撫で擦り、今度は彼の方に分け入った。
頬の粘膜に、歯の内側に、舌の裏に感じる微かなラムの残り香を、すべて舐め取る。
高まる熱とは裏腹に勢いをなくした彼の舌先を突付くと、愛撫を求めて追ってくる。こちら側に差し出されたそれを唇で噛む。
そのまま舌でなぞりながら顔を離す。まず唇が離れ、次に互いの舌が糸を引きながら離れた。
群雲は恍惚の表情で薄く目を開いた。
晴馬が自分を見つめているのを認めると、彼は再び目を閉じた。
彼の腕は、いつの間にか晴馬の肩にすがりつくだけの役割になっていた。晴馬はその手を取り、自分の左手に重ね合わせる。
群雲の背を支えてソファに横たえ、覆いかぶさる格好で再び重なる。
より深く、触れ合うために。
服を脱いで腕の傷跡をさらすとき、彼は逡巡した。
左の鎖骨に歯を立てたとき、彼は体を震わせた。
ともに昇り詰めようとするとき、
「晴馬さん」
と彼は荒い息の下で言った。
「晴馬さん」
と彼は肩ごしに指をさまよわせた。
「握っていて」
晴馬は自分の指を絡め、固く握りしめた。
キングサイズのベッドなど、しがない公務員である晴馬には馴染みが無くて落ち着かない。こんな経験は最初で最後だろうとぼんやりと考える。
うつ伏せのまま呼吸を整えていた群雲はようやく落ち着いたらしく、晴馬に髪を撫でられながら気持ちよさそうに目を閉じている。
こうしていると本当に少年のようだと晴馬は思った。
幼い頃、母親に添い寝してもらっている彼はこんな風だったのだろうか。
眺めていると、彼がゆっくりと目を開けた。
「晴馬さん」
かすれた声で小さく言う。
「どうして俺を殺さないんだ」
「何言ってる」
「あんたにはその資格がある」
黒い目でじっと見据える。
晴馬は溜め息をついた。
「言ったはずだ。俺はそんなこと望んじゃいない。お前は司法に裁かれる。それだけだ」
憤然として吐き捨てる。
「俺の相棒は死んだ」
群雲は晴馬を視線に捉えたまま言った。
「俺のスキームで」
その目は晴馬の視線を縛り付ける。
「俺が殺した」
深い深い引きずり込まれるような黒。
瞬きとともに溢れ出る一粒。
「どう終わるのがいいのかわからないんだ」
晴馬はその言葉の真意を知った。
「馬鹿なこと考えるな」
思わず腕を伸ばし、肩を寄せる。
彼は狂おしく母親の愛情を追い求めるあまり、自ら闇に踏み込んだ。他人を傷付け、自分を傷付けても、永遠に報われない渇望に、転がり落ちていく自分を止めたかった。
彼が待っていたのは天からの蜘蛛の糸ではなく、底知れぬ海溝のような破滅だったのだ。
今、彼は、破滅に逆らう心と、それでもなお破滅に惹かれる心の狭間で苦しんでいる。運命の断罪を待ちわびている。だが救いは向こうにはない。彼は必ず生きねばならない。
俺がさせるか。
その危うい存在を両腕で包み込む。
腕の中の群雲は睫毛を伏せた。
「晴馬さん、頼みがある」
「何だ」
彼は隠れるように晴馬の肩に顔をうずめる。
吐息混じりの囁き。
「もう一度だけ抱いて」
日が高くなるとじっとしているだけでも体温が上がる。シャワーを浴びたばかりですぐに汗だくなってしまうのには辟易した。
この家の大きく広がる吹き抜け構造が、湿気を含んだ外の風を冷ましながら通していく。風が最も心地良いところを探し、汗が引くのを待つ。
「ここは暑いな」
階上の足音に向けて話しかける。
「日本はまだ寒いぞ。覚悟しとけ」
頭の上から聞こえていた足音が降りてくる。
しわ一つないシャツのボタンを上まできっちりと留めて汗もかかず涼し気な顔をした群雲が、バッグとコートを提げて現れた。
その上品さと顔の痣があまりにもそぐわない。晴馬は彼の顎に指を滑らせた。
「ひどい顔だな」
揶揄するように言うと、
「あんたこそ」
返して、不敵に笑った。
「マフィアみたいだ。空港で止められても知らないよ」
「俺みたいな男前がか? ふざけろよ」
「誰がだよ」
彼は小さく吹き出す。
呼び鈴が鳴った。
「空港までの車を頼んであるんだ」
言って、群雲は玄関へ向かった。晴馬も荷物をとって後に続く。
迎えたのは小太りのヨーロッパ人で、彼のここでの友人らしかった。上等な普段着にブレゲの時計をつけているところから見て、近在の富豪の一人だろう。キングオブカリビアン、君がここを離れるのはとても残念だと嘆いた。
路上に駐めてあったBMWのトランクにバッグを詰め込み、晴馬は群雲に目をやった。
まぶしげに自邸を見つめている。
ここで何が起こったのか、晴馬は知らない。おそらく天国とも地獄ともつかない夢のような混沌があったのだろう。
群雲は一瞬切なげな表情をすると、視線を剥がして車に乗り込んだ。
三人を乗せ、車が発進する。
その後、二度と彼が振り返ることはなかった。
□ STOP ピッ ◇⊂(・∀・ )イジョウ、ジサクジエンデシタ!
この後空港シーンにつなげてください。
EDテーマはこの二人のソングだと思っているので少しからめてみました。
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