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不手際だって恋は恋

                    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                     |有/栖/川/有/栖 作家シリーズ准×作家 
                    (女性っぽい名前ですが男性です、念のため)
 ____________  \            / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 | __________  |    ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄| 初投下です。不手際あったらすみません。
 | |                | |             \
 | | |> PLAY.       | |               ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 | |                | |           ∧_∧ ∧_∧ ∧∧ ドキドキ
 | |                | |     ピッ   (´∀` )(・∀・ )(゚Д゚ )
 | |                | |       ◇⊂    )(    ) |  ヽノ___
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火/村への自分の想いに気付いたのは、もうだいぶ昔のことだ。
いつだったかははっきり覚えていない。報われないであろうそれに、けれど気付いたとき、しばらく自分は辛い恋をしなくていいのだと喜んだ。
恋をし、それを伝え、育み、そして壊し、…そういったことに少々疲れていたのかもしれない。
進まないことに言い訳を与えてもらえる恋だと思った。
火/村がいつか誰かに恋をしたなら、そっと吹き消せばいい。

それは、淡い、憧れのような恋だった。強く誰かを責め立てるわけでもなく、この胸の内だけで、静かにあるもの。
それは誰にも気付かれず、誰にも壊されない。
消そうと思えばすぐにでも消してしまえる程度の、緩やかな恋。
いつしか熱を失い、消えることを待つ、ただそこにあるだけの恋。

「アリ/ス。俺は結婚することにした」
だから火/村が唇をわずかに歪ませながら(これは彼にとっての微笑だ)そう言ってきたときも、私は何の衝撃もなく言葉を返すことが出来た。
「なんや、急にこっちに来る言うから新刊のお祝いに来てくれたのかと思ったで、センセイ」
「もちろん素晴らしく読者を待たせた長編のお祝いに来たんだよ、センセイ。報告はついでだ」
真向かいのソファに座った彼は、視線をコーヒーテーブルの上に落とした。煙草を持った指が、上梓されたばかりの新刊―今しがた彼に
献本したものだ―の表紙を軽く弾く。
「灰を落としなや」
私はすぐに彼の手の下から新刊を救い出しひと撫ですると、微笑みとともに心からの祝福の言葉を献上した。
「まあ、おめでとさん。ようやく君が納税する気になって、俺は嬉しい」
「お前も早く年貢を納めろ。未納のやつがいると、他の納税者の迷惑だ」
「君も今はまだ未納やろ。俺は人より遅い分、高額の税金を納める予定なんや」
私の部屋からは、ちょうど今その名に恥じぬ美しい夕日が見える。私の恋が、沈む瞬間。この恋にそっと息を吹きかけその火を消す瞬間。
美しい夕日もまた、消えようとしている。
何をもって高額とするんだよ、とやや呆れたように言う彼を無視し、私は立ち上がった。
「よし、本当なら俺が祝ってほしいとこやけど今日は特別や、君の新しい未来のために俺が奢ったる。メシ食いに行こう」
火/村の目が少しだけ細くなる。そしてニヤリ、と音が出そうな人の悪い笑みを寄こして言った。
「俺は旨い寿司が食いたい」
「君遠慮という言葉を覚えたほうがいいで」

火/村が見合いをしたという話を、私は二ヶ月ほど前に聞いていた。特に詳しいことは言わなかったが、どうやら直接師事する教授の紹介だったようだ。
結婚というものを人生から抜き去っているように見えていた彼は、けれどどうやら最初からその見合いを断る気がなかったらしい。
それなりに格好のつく外見と、それなりに体裁を繕うことの出来る性格、そして才気溢れる仕事振りと、そんなものを持った火/村が相手に
断られるはずもなく、どうやら見合いは結婚に向けて着々と進んだようだ。
随分と早い展開だがまあ、それがどんな思惑であってもいい。私は、火/村が誰かを自分の人生の中に組み込もうとするその姿勢に、いたく感動していた。
誰も近づけることのない姿。誰も愛さず、誰かに愛されることを拒絶する姿。それは、誰かのものになってしまう哀しみより、もっと哀しい。
他の誰かであっても、近づくことを許し、そして愛し愛される姿を見るほうが、どんなにか嬉しい。
それはきっと、私に出来ないことをしてくれるだろうから。向こう側に行ってしまわないように見守るだけではなく、
彼の中に眠るあの悪夢を少しずつでも消していってくれるだろうから。
だから、私は、本当に心から彼の結婚を祝福していたのだ。

結局私たちは、うちから程近いカジュアルレストランに来ていた。寿司はどうした、とうるさい火/村には悪いがここら辺に美味しい寿司屋はない。
次回彼女さんと一緒に来るなら旨いところを探しておいてやる、と言うと火/村はようやく諦めた。どうして貧乏くさいやつだ。
普段より少しだけ高めのワインを頼み、グラスをそっと目線まで上げる。人生の墓場に乾杯、と言うと、同じようにグラスを持った火/村に
お前の墓場が見つかりますように、と返された。小さくチアーズ、と囁くところがなんとも気障ったらしい。
「ところで美人さんなんか?」
「教授の奥さんに、美男美女で絵のようにお似合いだ、とはしゃがれたよ」
「さりげなく自分のことも褒めるのはやめぇや」
サーブされた料理に舌鼓を打ち、いつもより少しだけ早いペースでグラスを空ける。彼との会話は変わらずくだらない応酬で、それもまた楽しい。
火/村もリラックスしている様子を見せていて、外見に似合わずあまり酒に強くないせいで少しばかり頬が赤くなっている。それをからかうと、
少しばかり拗ねたような声でザルより人間らしいだろ、と返ってきた。思わず声に出して笑う。
「でもここ旨いやろ。実はな、俺が見つけたんちゃうねん」
「お前の好きなタウン誌にでも載ってたのか」
「俺は別にタウン誌が好きなわけやないで。活字があると読まずにいられんだけや」
「難儀なご病気だな」
「ふん、同病相哀れむか」
で、なんなんだよ、と先を促される。
「ああ、そうやった。片桐さんが教えてくれてん」
「東京在住の人間に教えてもらうほどお前はここに根付いてないのか」
火/村の片眉が引き上げられて、それから遅れたように口の端が上がる。
「毎度男と来ているわけか。たまには好きな女でも連れてこいよ」
店の人にあらぬ疑いをかけられるぞ、とニヤリと笑う。
「何を言うてるんや、片桐さんも君も、俺の好きな人やで」
火/村の表情が嫌そうに歪んだのを見て、してやったりと―一部本心を伝えてしてやったりもないものだが―思ってから、私は自分の浮ついた気持ちに
気付きそっと苦笑した。好きな人が幸せに近づくことがこんなにも嬉しい。

その相手が自分じゃなくても嬉しいほどに、私は火/村のことを好きだったのだ。
「結婚式はいつ挙げるんや」
「3ヶ月後だと」
「随分急ぐんやな。さてはデキたんとちゃうやろな」
思わず下世話な反応をした私に火/村は呆れた顔を隠すこともなく向ける。こういった表情は出会った当初実に怖かったものだ。いつ友人という
ポジションから外されてしまうかとビクビクしていたのに、いつの間にか慣れてしまってそしてあっさりその視線を受け流すことが出来るように
なっていた。ふとそんな邂逅じみた考えをする自分がまた可笑しい。
どうやら無駄にハイテンションだ。
「お前、オヤジ度が上がってるぞ」
「フォークで人を指す人間にどうこう言われたないわ」
お前、とこっちをまっすぐ指していたフォークを火/村の手から抜き去り、私の皿に鎮座していた牡蠣をひとつ掬い上げるとその手にフォークを戻した。
「新婚さんには亜鉛が必要なんや」
ニヤリ、と笑って見せると、火/村はますます呆れた顔を向けため息をついた。
「そうか、オヤジ度が上がるも何も、お前はもう立派なオヤジだったんだな」
「そうや、だから君も立派なオヤジやねんで、安心せえ」
食事を終えコーヒーを待つ段になって、何となくだが胸苦しさを感じた。今日はそんなに飲んではいないが、
はしゃぎすぎて少々酔ったのかもしれない。便所行ってくるわ、と身も蓋もない言葉を火/村にかけて席を立った。

洗面所のドアを開ける。正面にあった鏡を見た瞬間、私は嫌悪した。
なんなんだろう、この顔は。
こんな顔は知らない。
べったりと張り付いた笑顔。機嫌よく上気した顔色。
なんて酷い顔なのだろう。
無理やりに引き上げられた口角は中途半端に上がったままで、そのために使われた筋肉が皮膚の下で痙攣にも似た疲れを訴えている。
真上から照らされた照明のせいで目尻の笑いじわが強調されていて、それが意図的に作られたものだと主張する。酒の力を借りた血色のよい顔は
けれど不自然なほど赤くて、グロテスクでさえある……醜悪だ。
これは作られた顔だ。
私は火/村と話している間中、この作られた笑顔で接していたというのか。
私は心から祝福していたはずなのに。なぜこんな顔をしているのだ。
唐突な嘔吐感に、慌てて個室の扉を開けた。

「随分遅かったな」
テーブルに戻ると、火/村は既に飲み干してしまったコーヒーのお代わりをウェイトレスに頼んでいた。
「ああ、昨日も締め切りで徹夜してたからな、ちょっと酒が廻りすぎたようや。頭冷やしてた」
「やっぱり若くねぇな、センセイ」
「勤勉なだけや」
ウェイトレスが持ってきた新しいコーヒーを、既に冷めかけた私のそれと無言で交換すると―さりげない優しさは心に痛い―、火/村はだらしなく
ぶら下がったネクタイをさらに緩めた。私の顔をじっと見つめ、そして息を吐く。
「確かに顔色がちょっと悪いな。今日はこのまま帰って寝た方がいい。悪かったな、急に押しかけて」
「素直なんは怖いな。けどそうさせてもらうわ。君はどうする?泊まってくか?」
「いや、今日はまだ早いし帰ることにするさ。明日講義前にまとめておきたい資料もあるし」
「そうか、頑張りや。俺もまたしばらく締め切りに追われそうやねん。売れっ子は辛いわ」
私は自分の口からするりと出た嘘に驚く。小さい締め切りは確かにあったけれど、追われるようなものはしばらくない。
その嘘に感情が遅れて追いついて、ああそうか、私はしばらく火/村と会いたくないのだ、と気付いた。
「売れっ子って言葉の認識をすり合わせたほうがよさそうだな」
火/村は小さく笑う。
私たちはコーヒーをゆっくりと飲み、そして席を立った。

私は、困っていた。
一ヶ月の間に三度、火/村から連絡があった。一度目はフィールドワークのお誘いで、これは締め切りがあるからと断った。二度目は近くに来る用が
あるから寄ってもいいかと問われ、締め切り以外の言い訳が思いつかず片桐さんと打ち合わせがあると言ってしまった。そして今日が三度目の連絡だ。
用事で大阪に来るので、こちらに結婚式の招待状を持って寄るという。断るつもりだったのだが寝起きの頭ではとっさに理由を探すことが出来ず、
私がああ、とかいや、とか言っているうちに、なにやら責め立てるような口調で8時頃行く、という言葉とともに電話はさっさと切れてしまった。
いや、実のところ別に差し迫った締め切りなどないし、特に用事もない。気持ちに整理などついていないがだいぶ落ち着いては来たし、火/村に
会いたいという気持ちもあった。が、今の状態で会うことはあまりよくないように思えた。
あれから、私は何度も吐いた。
普通に食欲はあるし、食事自体は出来る。けれど食事の度に思い出すのだ、あの作り笑いを。そして思い出した瞬間嘔吐感に襲われ、食べたものを
すべて吐き出してしまう。毎食というわけでもなかったが、かなりの頻度で吐き気に襲われるため、いつからか私は食べること自体が嫌になっていた。
私は酷く痩せた。病院にも行ったが、「心因性ですね」の一言と栄養剤の点滴がもらえただけで、何の解決にもならなかった。入院を勧められもしたが、
心因性の原因ははっきり判っているのだからどうしようもない。
あの化粧室で、私は自分の仮面を見た。そして気付いた。
この恋心は、思っていたよりは根深いものだったのだ。
私は、火/村が幸せになることをとても喜んでいる。けれど同時に、彼の一番近くにいる人間が自分でなくなることに困惑している。
彼が誰も愛さないよりは、自分以外でも誰かを愛して欲しい。その気持ちに嘘はない。けれど、出来ることならば、彼の一番は自分でありたいという傲慢。
なんて愚かなのだろう、と笑えてくる。今の地位を失うことに気持ちが追いついていかないのだ。

そんな自分に失望した。だから、身体がちょっとばかり言うことを聞かなくなっているのだ。
別にいい、そう思う。この恋は少しずつ諦めを飲み込んでくれるだろう。少しずつこの恋を忘れていけるだろう。多分、時間という便利なものが
すべてを押し流してくれるだろうから。今までだらだらとその存在を見逃されていたこの恋も、状況が変わったのだから。結婚式までにはこの気持ちを
葬り、友人としての自分を構築し直せる自信さえあった。
けれど、今のこの状況は困るのだ。
そもそも急激に痩せたこの姿を火/村が見れば、不審を抱くのは当然のことだろうし、今の私は、どうも自分の感情を上手くコントロール出来ないようだ。
体力の低下は如何ともし難く―吐くという行為は、思った以上に体力を奪うものだった―、それに伴って気力も奪われていて、愛想笑いひとつ作るのにも
疲れてしまう。そもそも笑えていないことを人に指摘されてる時点で(顔見知りのコンビニ店員さんにまで心配されてしまった)どうなのだ。たとえ
あんなに醜い作られた笑顔であっても、それを貼り付けることでこの恋情を騙し通せるのであればそれでいい。けれど仮面も被れないようなこの状態では、
上手く誤魔化すことなど出来ないだろう。
この先彼と友人関係を続けていくためには、余計なファクターは排除しなければならないのだ。火/村が実は情に厚い男であると知ってはいるが、
だからといって自分に恋情を傾けてきた気持ちの悪い同性の友人を、その先も傍に置くとは限らない。ただでさえ友人に邪な感情を抱くという罪を
犯しているのに、その上彼から一人の友人を奪うといった罪を重ねるのは何としても避けたいところだ。
……やっぱり何か理由をつけて断ろう。この状態では、平静を装うのは難しい。
こんな簡単な結論を導き出すのに随分と時間をかけてしまっていて、時計を見れば既に3時間ほど経っていた。
まだ間に合うだろうかと慌てて電話を取り上げる。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

アリ/スからおめでとうの一言を貰ったとき、正直後ろめたい気持ちが先に立った。
自分は、愛情から結婚するわけではない。年齢と、社会的立場と、今後の研究の展望と、そして双方の都合と、そう言った諸々が組み合わさった
結婚という形だった。根っからのロマンティストであるアリ/スにこんな話は出来なかったし、かと言って後ろめたさもあって、どうしても
ありがとうとは言えずに適当にはぐらかした。けれど同時に、結婚という所謂世間で言うところの幸せとやらを心から祝ってくれているアリ/スの
笑顔に、こちらもひと時の幸福感に包まれた。自分の幸せを祝ってくれる人がいる、というのはなんという甘美な感覚なのだろう。
実際この結婚が自分に幸せをもたらすものではないと判っていたが、それに付随してこんな幸福感を味わうことが出来るのならばそれも悪くない、
と思った。
だから大阪府警に用が出来たとき、忙しいと何度も誘いを断られていたにも関わらずアリ/スと会おうと思ったのは、あの幸福感をもう少し
味わいたかったからなのかもしれない。
電話をかけ、俺だ、と声をかけると、ワンテンポ遅れてからどちらの俺様やねんー、と返ってくる。反応が遅いのは、まだ眠っていたからかもしれない。
「お前、締め切りはどうだ?」
「あー…いや、今は…」
「今日これから大阪に行く用が出来た。結婚式の招待状を渡したいんでそっちに寄りたいんだが大丈夫か」
「ああ…うん、いや、……」
間違いない、確実に寝ていたんだろう。要領を得ない返答に苦笑がこみ上げ、ついからかいの言葉が出てきた。

「デートの予定でもあるのか?」
「いや…あー、うん、いや…」
煮え切らない返答に、もしかして本当にデートの予定でもあるのかもしれないと思う。
アリ/スはあれで、別にもてない男ではないのだ。優しげな顔つきと、意外なほどの細やかな気遣いはかなりの魅力だと思う。もしデートをするような
女性がいるのであれば、それは祝福しなければならない。そう思ったはずだったのに、出てきた言葉はまるで見当違いの言葉だった。
「予定はないんだな?」
ならば8時頃行くとだけ伝えさっさと電話を切った。
少々強引な気もしたが、もし他に用があるようならかけ直してくるだろう。
なぜこんな電話の切り方をしてしまったのかと考える。アリ/スに特定の女性が出来れば、彼の時間を明け渡さねばならないからだろう、と
結論付けた。自分は思いのほかアリ/スに依存しているらしい。
彼は自分の結婚を祝福してくれたのに、自分はなんて幼いんだろう、そう思うと自分に少しばかり腹が立つ。

「ああ、お疲れ様です」
「また無理を言ってすみません」
府警に着くと、いつものように森下が対応してくれる。必要な資料はすべてまとめてくれていて、正直とても有難い。
それを受け取り、二、三の会話のやり取りを終わらせそのまま辞去しようとすると、ふと森下が思い出したようにあ、と声を上げた。
「そういえば、最近有栖川さんに会われました?」
「ひと月ほど前に会いましたが、どうかしましたか?」
いえね、と前置きをしてから、心持ち顔を火/村に近づけて言葉を続ける。
「昨日捜査で有栖川さんのお宅の近くに行ったんですけど、そのとき有栖川さんお見かけして…」
それがどうした、というように森下の顔を見やると、少しばつが悪そうに視線を逸らした。
「お声をかけようかと思うたんですけどなんやえらい痩せてて、疲れ切ってるって感じで」
「痩せてる?」
「ええ、げっそり。いつもの有栖川さんやないみたいで、声かけられませんでした」
「……この前また締め切りがどうとか言っていたので、それで無理をしたんでしょう」
それならええんですけど、と小さく呟くと、森下は急に照れたように笑った。
「いつも元気なんに、あんな顔もされるんやなーと思うたら、ちょっと心配になってもうて」
「いえ、締め切り破って森下さんにまで心配をかけるんじゃない、と伝えておきましょう」
そんなんええです、と慌てたように手を振る森下に再度暇を告げると、今度こそ府警を出る。
さっきの森下の照れたような笑いはなんなのだろう。人心を掌握するのが上手いアリ/スは、森下の心もまた掴んでいるのだろうか。そして、
今の自分のこの気持ちはなんなのだろう、とも考える。しばし考えて、自分の知らないアリ/スを森下が知っていたからだ、と結論付けた。
さっきの気持ちといい、自分はあの友人に対して随分狭量だ。自分にとってアリ/スが一番の友人でも、アリ/スにとってそうかどうかなどは判らないのに。
この後本当は在阪の大学に顔を出そうと思っていたが、予定を変更する。痩せてしまったという作家に、何か食わせてやろう。 

適当に食材を見繕うと、アリ/スの家へと向かう。伝えていた時間より随分早い到着となってしまうが、そこは気にしないことにする。
玄関前に立ち、インターフォンを押す。
いつもよりも少しだけ長く待たされている気がして―そして扉が開いた。
「人様の家に行く場合はな、到着予定時刻より早く着いたらあかんねんで」
「お前にだけは言われたくないな」
おもむろに皮肉をぶつけてきたその姿にとっさに言葉は返したが、その後の言葉が出てこなかった。
目の前に立ったアリ/スの姿といったらどうだ。これは痩せている、なんて言葉で片付けてしまっていいものなのか。今にも倒れてしまいそうな、
細い身体。もともとそう体格がいいほうではないが、それにしても異常だ。羽織ったシャツから出た手首の細さが痛々しい。首から肩にかけての
ラインが、明らかに一回り細くなっている。どちらかというと丸顔だったのに、その輪郭が削げ落ちたかのようになってしまっているし、
顔色も血の気がない。ただでさえ大きい目が落ち窪んで、その存在を主張している。
「……お前、どうした」
「何がやねん。入るんなら早う入り」
ちょっと困ったように笑うと扉から手を離し、アリ/スはそのままリビングへと進んでいく。慌てて後を追うように玄関に滑り込み、そして
森下の心配の意味に納得した。

「お前、なんでそんなに痩せてるんだ。食ってないのか」
キッチンからアリ/スの鼻歌が聞こえてくる。とりあえず荷物を下ろし買い込んだ食料品をキッチンに持ち込むと、アリ/スはコーヒーを入れてくれていた。
「ああ、いやな、締め切りあるって言うたやろ。それでただでさえ食べてなかったところに風邪ひいてもうてなぁ」
いやいやお恥ずかしい、とでも言いそうな顔でこちらを向く。
そんな状態でこちらに救援を求めなかった例がない。明らかに嘘と判る言葉にどう答えようか迷う。
「でもちょっとダイエットしようと思うてたからちょうどよかったわ。ほれ」
マグカップを押し付けて、そのままリビングへと行ってしまう背中を追いかけながら声をかけた。
「助けを求めなかったのは珍しいな。お前は放っておくと野垂れ死にするタイプって判っているだろう」
「せめて野垂れ死にしそうなタイプ、にしてくれんか」
フンと鼻を鳴らすと、アリ/スはソファの向かいにクッションを置きその上に座り込んだ。
ソファに腰を下ろし、改めてその姿を見る。見ているこっちが辛くなるような痩せ方だ。たかだかひと月で、こんなにも人間は弱ってしまえるものなのか。
「……で、風邪とやらは治ったのか」
「だいたいな。なぁ、招待状見せてや」
手をずい、とこちらに伸ばす。子供がお菓子でも要求しているのかという仕草に苦笑しつつ、唐突に話を切られて、なんとも複雑な気分だ。
なあなあ、と煩いので鞄から封筒を取り出す。広げられた手の上に置くと、アリ/スはしげしげと眺めた。
そして書斎からペーパーナイフを持ってくると、何をそんなに、と思うくらい慎重に開封し、中から招待状と返信ハガキを取り出す。
「ふぅん……なあ、ハガキ今書いたほうがええ?それともあとで投函するほうがそれっぽい?」
「なんだよ、それっぽいって。どっちでもいいさ」
招待状に丁寧に目を通し、ひっくり返して裏のデザインを褒め、そしてこの文章は定型で決まっているのかそれとも自分たちで考えたのかと質問し、
この会場は何とかという芸能人が式挙げたところや!と叫び、封緘がいかにもお前っぽいと笑い、この日は誰それの誕生日と同じ日だと驚き、
ひとしきり堪能したあとで、アリ/スはふいに動きを止めた。

「どうした」
「……ん、いや、なんや感慨深いなーと思て」
照れたように笑う姿は自然で、けれどなぜか視線が合わないことに苛立ちを覚えた。
「何が感慨深いもんか、何にも変わりゃしねえよ」
アリ/スはふい、とこちらに視線を寄こして、そして一瞬何かを言いかけて、結局困ったように笑った。
「俺も早う嫁さん探さなな。置いてけぼりはごめんや」
「ファンには手を出すなよ、作家センセイ」
「ファンが多いからな、ファンを避けると選択肢がだいぶん減ってまうわ」
「ファンを避けるといなくなる、くらい言って見せろよ」
俺は謙虚なんや、と嘯くアリ/スを横目に腰を上げる。
「キッチン借りるぞ。独身貴族の先生に、飯の差し入れでもしてやろう」
いつもなら尻尾を振りまくった犬のような反応を見せるアリ/スが、ほんの一瞬目線をさ迷わせた。
「あー、あんな、俺さっき変な時間に食事してもうてん。だからまだ当分腹減らんと思うし、もし作るんなら君の分だけ作ればええよ」
「……なら、作っておくからあとで食べろよ。飢え死にされちゃ寝覚めが悪い」
「君、野垂れ死にだの飢え死にだの、酷い言い様やな」
「そう言われないようせいぜい気をつけてくれよ」
キッチンに向かいふと振り返ると、アリ/スは窓から侵食するように入ってきた夕日に照らされ、手にした招待状をじっと見つめていた。
オレンジに照らされた頬はこけていて、その唇は何かを堪えるように引き結ばれている。
初めて見るアリ/スの姿に、摩滅したはずの心が、ざわざわと音を立てて揺らいだ。

「お前も少しは付き合えよ」
何種類か作ったおかずをローテーブルの上に並べ、冷蔵庫から勝手にビールを二缶出してひとつをアリ/スに手渡す。
さらにその手に半ば強引に箸を押し付けると、なんやセンセイは一人じゃメシも食えんのか、とニヤリと笑った。
「そうなんだ、一人じゃメシも食えない可哀想な俺のために付き合えよ」
「……素直な君はほんま怖いからやめてくれ」
「俺はいつでも素直だ」
ソファに腰を下ろすと、アリ/スがビールを掲げてきた。
「何に乾杯だ?」
「君が結婚するまで、乾杯はいつでも『人生の墓場に』、や」
「じゃ俺は毎回お前の墓場が見つかることを願わなきゃなんねえのか」
「願っといてくれ。俺も必死や」
二人で笑いあって、缶をぶつけた。
結婚の準備はどんなことをするのだ、とアリ/スが聞きたがるので、問われるまま答えてやる。いちいち「ほう」だの「そうやったんかー」だの
感嘆の言葉を口にしながらメモでも取りそうな勢いで次から次へと質問を繰り出してくる。
そのアリ/スに返事をしながら、動きをさりげなく見ていた―が、食べる気配も飲む気配も全くない。
いや、ビールには口を付けているが、中身は多分半分も減っていないだろう。いつものペースを考えると、らしくない。
さっき食事を準備するためにキッチンに立ったが、ここ最近使われた気配が全くなかった。食器を洗った痕跡さえない。シンクの脇に置いてある
グラスが唯一使った形跡があるだけで、あとはまるで何日かの旅行から帰ってきたときのようだった。違和感を感じてゴミ箱の蓋を開けると、
見事に何も入っていない。生ゴミはおろか、こいつのうちに常備してあるインスタント食品の袋もコンビニ弁当の類も。念のためさりげなく
リビングのゴミ箱をチェックすれば、そこにも紙ゴミ以外何も入っていなかった。
「なあ、冷めないうちにこれ食えよ。自分で言うのもなんだがかなりいい出来だ」
「あ、おう…あんま腹減ってないんやけどな」
「俺のありがたい友情を素直に受け取っておけ」
アリ/スは困ったように笑って、箸を手にした。

またこの顔だ。今日ここに来てから、アリ/スは時折この顔を見せる。もしかしたら本人も意識していないのかもしれないが、普段ではなかなか
しない表情を見せるこの男が、その痩せてしまった姿と相まって別人のように見える。
「あ、ほんまや、旨い。君いい旦那さんになれるで」
一つ、二つと嬉しそうに摘んで口にする姿はいつも通りだ。さっき感じた違和感は気のせいだったのかもしれない、
と思い始めたところでアリ/スがふいに動きを止めた。
「……どうした?変なものを入れた覚えはないが」
「……や、いや何でもあらへん。喉に詰まりそうになった」
そしてまた困ったように笑った。
「すまん、ちょっとトイレタイムや」

「なぁ、君幸せになってや」
戻ってきたアリ/スは、唐突にそんな言葉を呟いた。
どんな顔をして言ってるのかと見れば、一瞬目を伏せて、そしてにっこりと微笑んでビールを一気にあおる。
「うわー、恥ずかしいこと言うてもうた」
「言われたほうが恥ずかしい」
アリ/スはテーブルの上に置いていた招待状を改めて手に取り、そっと撫でるようにして丁寧に封筒にしまう。
「君とこうして過ごす時間も減るんやし、たまには恥ずかしい台詞もいいかと思うたんや」
「…なんで時間が減るんだ」
「なんでって……君、ただでさえ忙しいんやから、ちゃんと奥さんの元に帰ったらな」
また困ったように笑いながらのその姿に、なぜか急に苛立ちがこみ上げた。

「なあ、お前今日出かけたか?」
急な話題の転換について来られなかったのか、怪訝な表情をこちらに向ける。
「いや、今日は出てへんけど……」
「今日何食べた」
「何って…いや、」
「お前、今日何も食べてないだろ」
表情から仮面が落ちたかのようにアリ/スは無表情になって、そして一瞬の後またあの困ったような笑顔になった。
「なんや君、ほんまもんの探偵にでもなったんか」
「何で食べてないんだ」
「風邪が、治りきってないんや。食欲がない」
「いつから」
「一…週間くらい、前やな」
「なんでそんなに痩せている」
「だから、締め切りで食べてなかってそんで…」
「何があった、アリ/ス」
「……」
「何があったんだ、アリ/ス」
唐突に気付いた。あの困ったような笑顔は、笑っていたのではない。泣きそうになるのを堪えている顔だ。
アリ/スはふいに立ち上がると、そのまま寝室に向かった。扉を開けつつ振り返らずに言う。
「悪い、やっぱり体調悪いみたいや。君泊まってくなら風呂でもなんでも適当に使うてや」
パタン、と軽い音を立てて扉が閉まった。

急に痩せた姿、慣れない嘘、そしてあの泣きそうな笑顔。今まで見たことのないアリ/スに、上手く思考がまとまらない。
コーヒーでも飲もうとキッチンに入って初めて、この部屋に入ってからまだ一度も煙草を吸っていないことに気付いた。
そこに綺麗なままの灰皿が置いてあったからだ。どうやら自分が思う以上に、痩せたアリ/スの姿に衝撃を受けていたらしい。
思わず苦笑いをこぼして、灰皿とコーヒーとともにリビングに戻る。
まだ熱いコーヒーはそのままに、何時間か振りの煙草に一息ついた。
ようやく廻り始めた頭でつらつら考える。そもそも、アリ/スが嘘をついたことが驚きだ。彼は嘘をつかない。言いたくないことがあれば言わないだけで、
それをわざわざ取り繕うようなことはしない。もし嘘をつくとすれば、それは嘘をつかないことで相手を傷つけてしまうと思ったときくらいだろう
―例えば寝た振りをする瞬間などに。もしかしたら、ここ最近忙しいといっていたのも嘘なのかもしれない。大体片桐との打ち合わせなら、大抵その後
一緒に飲むかと誘ってきていたではないか。
あの痩せた姿はその嘘の理由と繋がっているのだろう。そしてあの泣きそうな顔も。
一体何のためにアリ/スは変わったのだ。一体誰のためにこんなに変わってしまったのだ。
ひと月前まで、何にも変わりなかったのに。ひと月。そう、ひと月前。

「……アリ/ス?」
寝室からアリ/スが出てきた。手で口を押さえるようにして、トイレに駆け込む。思わず追いかけてノブに手をかけたが、その直前にカチリという音が
聞こえて鍵をかけられたと判った。
閉ざされたドアをそっとノックしてみるが、反応はない。中からは微かに咳き込む音と、抑えたようなうめき声。
「アリ/ス、大丈夫か。おい、アリ/ス」
ようやく出てきたと思えば洗面所で口を漱ぎ、そのまま寝室に戻ろうとする。
「アリ/ス、ちょっと待て、おい!」
その肩に手をかけて、思いもよらない手ごたえに恐怖すら覚えた。はっきりと判る骨の感触。ちょっと力を入れれば折れてしまいそうだ。そのまま
引き寄せることさえ躊躇われて、思わず手を離した。
「……すまん、ほんま何でもないんや」
振り返ると、アリ/スはそっと視線を合わせて、また困ったように笑った。その顔を見て、どうして何でもないなんて思えるのだ。
何も言えずに、けれど何とかその真意が酌めないものかとアリ/スの目を見つめる。
笑顔を貼り付けたまま、アリ/スの視線は俺から逸らされ、そしてゆっくりと下がっていく。次の瞬間、アリ/スの瞳から、一筋涙が零れ落ちた。

ああ、やっぱりダメだった。
玄関で火/村の姿を見た瞬間から、もうダメだと思った。いつものように出来ない。普通を装うことが出来ない。
せめて決定的な異変だけは気付かせてはいけないと思ったのに、この身体はどうやら隅々まで言うことを聞いてくれなくなったらしい。
勝手に溢れてしまった涙に続いて、喉から嗚咽が出てこようとする。
「……っ」
とにかく寝室に逃げ込もうとしたのに、手首を掴まれた。振りほどこうとするが、びくともしない。
反射的にもう片方の手で火/村の手を外そうとして、逆にその手も掴まれた。両手首を引き寄せられ、身動きが取れない。
火/村の闇を宿す瞳が、まっすぐに覗き込んでくる。断罪する目。暴かれる罪。膝から力が抜け、掴まれた手首を残したままその場に身体は崩れ落ちた。
「アリ/ス!」
どうして友人を好きになってしまったのだろう。どうしてその幸せだけを願ってやれないのだろう。
せめて、どうして、自分の気持ちを騙したままいられなかったのだろう。
私は火/村が欲しいのだ。火/村の幸せなんてどうでもいい、ただ火/村が欲しいのだ。だからこんなにも苦しい。
聞き分けのいい恋だと思っていた。尊敬や憧れに近い、現実味のない恋だと思っていた。だから、火/村が誰かを愛しても、それを彼の幸せだと
祝うことが出来るのだと、そう思っていた。
大した嘘つきだ。
私はこんなにも意地汚く火/村を欲しているではないか。他の人のものになると判っただけで、こんなにも混乱し、憤り、哀しんでいるではないか。
誰かが火/村を愛し、そして火/村が誰かを愛す。そのことにこんなにも我慢がならない。どうしてそれが私でないのだと、この胸が叫んでいる。
どうしてこの恋を忘れられるなど思っていたのだ。こんなにも強く存在しているのに。消し去ろうとするだけで私の身体も道連れにしようと
するような恋なのに。
ああ、なんて自分勝手な欲望。その上私は、火/村から気のいい友人というものを奪おうとしている。

「……なん…で、も、……んや……」
ああ、涙が止まらない。気道が詰まったように声が出てこない。せめて涙を隠してしまいたいのに、火/村はこの手を放してくれない。
「…アリ/ス、お前は何でもないのに泣くのか」
「……な、き…い、とき…も、あ」
「ああ、判った判った、悪かった。立てるか?ここは冷える」
火/村の声が妙に優しくて、そしてこの優しさを失うことを考えて、また涙が溢れた。何も答えられない私に火/村は業を煮やしたのか、
そっと手を放すとおもむろに私を抱えあげた。驚きのあまりなすがままの私をソファの上に横たえるように下ろすと、その横に跪く。
「アリ/ス」
その声はやはり優しい。
けれど私はこの優しさを裏切っているのだ。
「アリ/ス、お前、俺が好きなんだな?」
火/村の視線から少しでも逃げたくて、両手で顔を覆った。なんて残酷な確認なんだろう。私は火/村から一人の友人を奪い、軽蔑する対象を増やし、
そして多分この優しき男の心に傷を付けるのだ。
「………」
「アリ/ス」
答えなければならないのだろう。
私は自分の罪を告白し、そして断罪されなければならないのだ。
ああ、涙が止まらない。
「……ご、め…、ごめ、なさ……っご、めん……」
願わくば、私という存在が、この男にとって取るに足らないものでありますように。
どうか、この男の中で私という存在が早く死んでくれますように。
「告白されたことは何度もあるが、謝られたのは初めてだな」
返ってきた声が笑いを含んでいて驚く。私が動くよりも先に、火/村の手が顔を覆っていた私の手をどけた。
「気持ち……わる、ないん、か……?」
火/村はひょい、と肩を竦めてニヤリと笑う。
「ああ、自分でも驚いている。どうやら俺は、喜んでいるらしい」
一瞬言葉を失って、すぐに気付いた。こいつは好きの意味を取り違えている。多分もっと軽い、そう、ついさっきまで私自身がそう思っていたような
軽い好意だと思っているのだろう。でなければ、こんな言葉を言えるわけがない。
と、火/村の片眉が器用に持ち上げられた。
「ふん、言葉のすり合せが必要か?」
ふいに身を屈めるようにすると、火/村はその薄い唇を私のそれに落とした。

まあ俺も言ってなかったからな。そう一人ごちると
「今回の結婚はな、アリ/ス。ひとつのビジネスなんだよ」
そんなことを火/村は言った。
何度断っても見合いの話を持ってくる教授に、ある日火/村ははっきりと言ったそうだ。自分の人生に誰かを添わせるつもりはない。
独身ということが多少の研究の邪魔になるとしても、自分はそのために誰かと生きていくつもりはないのだと。その場は引き下がった教授だったが
それからしばらくして教授はまたお見合いの話を持ってきた。何とも異常な条件とともに。
「相手は、ある大学の助教授をしている女性なんだが、所謂同性愛者ってやつだ。トランスジェンダーといった方がいいのかな。出世のためには
形だけの結婚も厭わないというアグレッシヴな人物でね。今の大学で教授になるためには、結婚して安定した生活をしていることが条件だと
言われたらしい。それで、同じように結婚しても衣食住すべて別、とにかく結婚しているという形さえあればいいという変わった物件を探していたと
いうわけだ」
俺も結婚という大義名分があれば仕事がやりやすくなるな、と思ったもんで。
そう軽く言うと、驚きのあまりずっと固まっていた私の頬に手を伸ばし、親指でそっと涙を拭った。
「結婚式を急いでいるのも、三ヵ月後には彼女が海外の大学に出向するからだ。三年あっちで研究して、戻ってきたら教授のポストが
用意されているらしい。だから戻ってきたら離婚をしようという話まで出来上がっていたんだよ」
「……それ、ご祝儀詐欺やんか……」
思わず出た言葉に、火/村はおかしそうに笑った。
「お前が、何を考えているのか判らなかった。なぜこんなに痩せてしまっているのか、嘘をついているのか、泣きそうな顔をしているのか。
お前をこんなにも揺さぶる何かに、酷く腹が立った」
ぐちゃぐちゃになった私の髪を、火/村の指がそっと梳く。
「どうしてこんな感情になるのか考えた。お前が泣いているのを見て、それが自分のためであればいいと思った。それで、この感情がなんなのか判った」
なあ、と火/村が顔を寄せる。

「俺は誰とも共に生きていかないつもりだった。だけどよく考えてみれば、俺は既にお前と共に生きている気がするんだ」
そうは思わないか、という意味の言葉をさらりと英語で囁いて、じっと目を見つめる。
「……あまりに急な展開で、よう判らんわ……」
正直な気持ちだった。私は火/村のことが好きで、火/村の結婚が決まって、私は恋を忘れなければならなくて、そして上手くいかずに火/村に
振られる…はずではなかったのか。
「まあとりあえず、お前の正直な気持ちを言っておけよ。お前からは謝罪の言葉しか聞いていない」
よく判らない。でも、今の火/村の目は、優しい。
「…………好きや。…君が好きや、火/村」
言い終わらないうちに、再び火/村の唇が降ってきた。優しく触れるようなそれが、やがてゆっくりと蠢く。
首の下にそっと手が添えられ、薄く開いた歯の間から舌が差し込まれた。探るように動き、私の舌を捕え、絡ませる。
「んっ……」
徐々に激しくなる動きに息苦しさを覚えて声を出そうとするが、それも飲み込まれる。火/村の舌が味わうように動き回り、歯列をなぞり、
溢れてくる唾液を啜る。舌を吸われ、また押し込まれ、何がなんだか判らなくなる。
「ひ、む……っ」
ようやく唇が離れて、そのままの至近距離で見つめられた。
「お前が嫌というなら結婚はしない。だから、俺と生きろ。悪い話じゃないだろう?」
「…俺が好きや言うてんのに、何で君が口説いてんのや」
「さてね、初めて恋の自覚というものを体験をしたんで、舞い上がってんじゃないのか」
例の人が悪そうな顔でニヤリと笑って、それから破顔して、私を強く抱きしめた。
「なあいいだろう。俺と生きろ」
悪いわけなどあるか。
私はそう言って、そっと火/村を抱き返した。
 

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  • ヒム×アリ熱が再燃してる所で発見して萌え滾りました…!自分的に理想の二人過ぎる…。ありがとうございました! -- 2010-12-30 (木) 23:37:27
  • 素晴らしい!読んで電車内で泣くという失態を犯しました。続編キボンヌ! -- 2010-12-31 (金) 12:09:25
  • すっごい理想通りの話でした!素晴らしいですこの話大好きです! -- 2012-06-07 (木) 00:44:23
  • 切なさからのハッピーエンドに、涙の意味が途中で変わりました!萌えました! -- 2013-07-12 (金) 18:14:09

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