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亡国のイージス

国道の両脇に生る橙色の光が彼の顔を染めている。
眦でちらちらと動く影は男の割に長い睫毛が作っているらしい。
酒の匂いが微かにする唇は瑞瑞しく濡れて紅を注した女のそれとは違う色気を感じさせる。
その滑りが自分自身が信号待ちの隙に噛み付いた名残だと思い出せばと尚昂ぶるものが在った。
「狸は何と言ってた?」
不機嫌そうな視線が一瞬だけこちらを向いてまた窓の外へと戻る。
一人では胸に収めきれない事があったんだろうと呼び出された時から分かっていた。
終電に乗り遅れたなんて今時処女でも使わない口実だ。
言葉を捜すように薄く開いたままだった唇が漸く動く。
「次の局長選挙には出るつもりはない、と。
局内から他に候補を立てるつもりもないと言われた。」
狸と揶揄される腹の裏側まで黒い男が方法はともかく身を切って誠意を示す気なのだ。
案外やるじゃないか、古狸。
そんな気持ちを込めて細く口笛を吹くとじろりと睨まれた。
「勿論断った。俺は上に立つ器も図々しさもないからな。」
育ちの良さを思わせる細い指が腿の上でトントンとリズムを取っている。
直接上司にはぶつけられない苛立ち半分、足代を勝手に頂戴した俺への怒り半分といったところだろうか。
けれどいつもの彼からすれば感情的になり過ぎているように見える。
怒りを自己意思で抑え他にその分のエネルギーを回せる男だった筈だが……。

「あの絵……「救出」を置いて黙ってるんだ。」
拗ねた子供のようにぽつりと呟いたその一言で合点がいき嗚呼と思わず相槌の声が漏れた。
なるほど。それを出されたなら彼はもう断れない。
ずるい、と子供のように小さな声が零れてすぐに消えた。

それは関わった者全ての心に深く残っている傷だった。
触れずに覆い隠してしまえばいつか癒えて忘れるという種類の傷ではない。
そこまで見抜いている古狸は敢えてその傷を剥く痛み、つまり償いの機会を与えるつもりなのだろう。

しかし彼はその与えられた機会で償い、やがて許される事を恐れているように見えた。
言葉に出して確かめたはしなかったが命で贖おうと思った事は一度や二度ではなかった筈だ。
遺書代わりの辞表を撤回した今でも彼は心の中に誰も入らせない隠れ家を持ちそこで絶えず己を責め続けているに違いない。
「本当……参るよな。俺にどの面下げて登庁しろってんだ。」
「堂々としてりゃいいさ。
お前に責任が無いわけじゃないがお前だけの責任でもない
一人で背負い込むな。」
「狸と同じ事言いやがる。さてはお前らグルか?」
つまらん悪態に一つ鼻を鳴らすと窓を開けて近くなった海の匂いを招き入れる。
懐かしくも哀しいこの香りが俺の拙い言葉の代わりに彼を包んでくれれば良いのにと思う。
「……よく見ろ、イソカゼ。これが人間だ。」
あの時は血が煮えるほど立腹したヨンファの言葉を口真似て海の底へと沈んだ艦の名を呼ぶ。
その隙に動きの止まった指先を捕えるとそのまま俺の股座に導いてやった。
運転が疎かになるほどではないがしっかりと硬さが生まれている処だ。

予想の通り育ちの良い彼は突然の痴漢めいた行動に言葉すら無いらしい。
可愛らしさに思わず漏れる笑いを咽で止めながら言葉を続ける。
「責任の一つ取るわけでもなくのうのうと室長の椅子に座って飯喰って酒飲んで…」
「……お前に責任はない。」
「黙って聞けよ。
その上惚れた奴にキスしたくらいで勃てて本当に救いようが無い、これが人間だ。」
……許してやりたいのだ、俺は。

「けど、生きていては駄目か。生きていく限り償う、償いたいと思う。
だから……生きていたら駄目か?」
俺は、そしてお前は生きていては駄目なのか。
これから先、決して許しはしない彼自身の代わりに許してやりたい。
ああ、プロポーズでもこんなには緊張しないだろう。
「……馬鹿め。」
掠れたようなささやかな声は確かに駄目じゃない、とそう続いた。
「馬鹿で結構。」
若い工作員が描いたあの絵と同じようにできるだけ真っ直ぐ前を見詰めたつもりだったが正直者の一物に熱が集まって巧くいかない。
人間云々よりも俺という男の救われなさに内心呆れたがそれを笑う余裕もある。
馬鹿で、スケベで、どうしようもないなりに生きていこうと思う。

フロントガラスの遠くには海も空もわからない暗闇が広がっていたがそれがやがて明ける事を俺達は知っている。


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