Top/2-706

虚無への供物?

月は翳ろいを帯びていた。半透明の靄がかかり、濃紺の夜空に滲んで見える。
それが天の高みにあってぼんやりとした光を投げ掛けては冬の街を照らし出している。
冷え冷えとした夜気は肌に鋭いが、同時に心地良くもあり、
迫り来る年の瀬の熱に浮かされた人々の肌から体内に染み入っては心を覚ます。
バレエ、と彼は呟いた。夜の静謐の裡に隠れたその部屋にも月光は等しく降り注いでいる。
「ずっと習っていたとかいう、それか」
そう、と相手は晴れやかに微笑んだ。勤め先ではおキミちゃんの名で呼ばれている。
「明後日がお店の忘年会だから、ちょうどいいと思って。演し物はサロメ」
その言葉に頷いて、氷沼蒼司は冷えかかった煎茶を啜った。
近頃では酒を飲む気にもなれず、
やむを得ず口にする場合でも決して美味いとは思えなくなっていた。
血を温め、同時に心をほぐしてくれる筈のその液体は、
今の彼にとってはほろ苦い水でしかない。
「やっぱり、見に来ては貰えないんでしょうねえ」
おキミちゃんはからかいと不満を混ぜ合わせた表情を作り、
そのまま真正面から蒼司を見据えた。
蛍光灯の白い光の中に浮かび上がる顔は目元涼しく、
仕事中とは違い化粧気のない面貌は、衆目を引かずにはおかない美しさを持っている。
小首を傾げて微笑む仕草からは、悪辣さと奇妙な純真さが複雑に縒り合わされて仄見えていた。
それがおキミちゃんの魅力を一層引き立てているのは間違いのない所だが、
今夜は純真さが勝っていると見え、自分も煎茶を喉に流し込みながら蒼司の向かい側に座り込んでいる。
そうして頬を膨らませる姿はいかにも愛らしい。
今の蒼司にとって、秋以来強張り続ける心を和らげてくれる殆ど唯一と言ってもいい存在でもあった。

「せっかくだから、と言いたい所だけれど。俺はどうもそういう場所が苦手でね」
「近頃じゃ、ママまでがうるさいったらありゃしない。
お前の旦那は一度も店に顔を見せておくれでないねなんて言われて。
一体どんなお人なんだいって訊かれてばかり――その度に、盛り場が苦手な人だって答えて」
苦笑まじりの不満に同じく苦笑で答えて、蒼司は窓の外に視線をやった。
カーテンを開けた窓から見上げれば、そこにあるのはひっそりと佇む月。
いつしか夜空は晴れ渡り、月を取り巻いていた靄は何処かへ姿を消したものらしい。
ようやくすっきりとした顔を覗かせた月、不意にそれは残酷なものとして蒼司の目に映った。
――なぜそう思うのか。彼自身、確たる答えを持ち合わせないままに思ったのだ。この月は残酷だと。
おっとりと放たれる柔らかな光。それが蒼司の中に蹲るものを抉り出して
彼の目前に突き付ける、そんな錯覚を覚えて小さく首を振る。
自分だけではあるまい、と思う。今夜、この月光に秘めたるものを暴かれる気がして首を竦めたのは。
遠い一夜、両親と弟と連れ立って出かけた時のことを思い出す。あれはいつのことであったのか。
車窓の向こうに広がる夜空と、そこにぽつんと浮かぶ満月の、その姿が思いもよらず鮮明に蘇る。
弟は言ったものだ、お月様がついて来るよ、と。ずっと僕達の後をついて来る、
お月様がじっと見ていると怖がって母の腕に縋り付いていた。
そう見えるだけだよ。蒼司そうは笑ってみせたが、今夜になってなるほどと思わずにいられなかった。
――お月様がじっと見ているよ。
ふと脳裏に響いた声は、果たして誰のものであったのか。

「……どうしたの、黙り込んで」
傍らから発せられた声に、蒼司は物思いから引き戻された。
おキミちゃんは蒼司の隣にやってくると、そのまますとんと腰を下ろした。
切れ長の目には不審の色が滲んでいる。
「いや、大丈夫だ。月を見ていただけだよ」
「月?」
「ああ。ほら、綺麗だろう?」
言って、そこを指し示す。
「あら、本当。いい月だこと」
おキミちゃんの無邪気な声音と横顔に、蒼司は口元を綻ばせた。
「お前は怖くないか? あの月の光が」
「怖い?」
心底驚いたという風におキミちゃんが軽く瞠目する。
「どうして?」
「どうしてだろうな。そんな気がしたんだ。まるで見られているような……。
隠していたものを暴き出されて、これがお前だと目の前に突き付けられるような気がした」
「太陽はあんまり大きくて眩し過ぎて、だからそれ程怖くない。でも、月は夜のもの。
真っ暗な場所をそっと照らすから、その優しい光が却って怖くなる。
だって、誰だって一つや二つは内緒ごとを持っているもの。
どうだ、お前は私の秘密を全部見たぞなんて言われている気になってしまう。
夜の暗さがそのまま自分の秘密のように思えてしまって、だからそれを照らす月明かりが怖い」

どこか歌うような、夢見るような抑揚でおキミちゃんは言い、それからにっこりと破顔した。
「あのね、サロメにも月光が付き物なのよ」
そう言ってゆっくりと立ち上がり、お隣もお向かいも今夜はお留守だからと悪童めかして笑う。
「お店で見て頂けないなら、今ここで踊ってもいいでしょう。大丈夫、うるさくしないから」
そうして、蒼司の返事も待たずに小さな机を部屋の片隅に寄せてしまう。
灯りを消して部屋の中央に立ち、小声で音楽を口ずさみながら軽やかに舞うのだった。
冴え冴えとした月光が窓から差し込み、クリーム色のセーターを纏ったサロメを浮かび上がらせている。
時折、たった一人の観客に視線を走らせては艶然と微笑んで見せるが、
蒼司を今宵のヨカナーンに見立てているのは間違いない。
無垢な乙女さながらに清らかに笑み、体重を感じさせぬ程軽やかな身のこなしを見せたかと思うや、
ゆるゆると物憂げに、そこにある空気さえ邪気を孕んだかのように昏い瞳で繊手を差し伸べる。
――触れてくれぬのならその首を貰い受けようぞと言わんばかりに。
それへふと手を伸ばしかけて、わざと引っ込める。
おキミちゃんはそんな蒼司の仕草が嬉しいらしく、
意地悪なヨカナーンねと鼻歌の合間に言ってみせるのだった。

やがて束の間の小さな宴が終わりを告げた時、
時刻が時刻なだけに控え目に拍手を贈りながら、それでも蒼司は絶賛した。
「お見事」
彼らしい短い言葉ではあったが、踊り子は満足げに胸を逸らせた。
「本当に?」
「俺はこういうことには疎いけれど、それでも分かるよ。良かったよ、とても」
「嬉しいこと。頑張ってお稽古した甲斐があったというものだわ。
蒼司さんに誉めて貰えないんじゃ意味がないものね」
「大丈夫だよ。だから忘年会でも自信を持って踊ればいい」
その言葉に、おキミちゃんは心底嬉しそうに笑む。
灯りをともすのが惜しいというように、そのまま腰を下ろして月を見やる。
「月に見られても平気」
まるで挑みかかるような口調で言う。
「見られようが見られまいが、秘密があろうがあるまいが、生きていることに違いはないもの。
月に見られて生きていけないなら、この世のどこにもいられない。
見たいというなら見せてあげればいいだけのこと。
一切合財が自分、少なくとも、今こうやって生きている自分が間違っているとは思わないから。
そりゃあ、あたしはゲイバアのボーイだけど、それがどうしたって言えばいい」
間違っていたとしても、とおキミちゃんは続ける。
それもまた自分、それならどうぞと月に見せて差し上げよう――

蒼司も夜空を見上げた。その視界の中、決してお前を見逃すまいぞと月が瞬く。
だが、先程まで彼を捉えていたあの感覚はいつしか消散していた。
いいだろう、と声に出さずに呟く。
それなら見届けるがいい。お前が遠い未来までも輝き続けるものならば、
この先俺の人生がどうなるのか、寸分漏らさず見届ければいい。
――他にはいないのだから。これから先、蒼司が何を思い何を為すのか、
全てを見ていられる者など月以外にあろう筈がないのだ。
そうして口辺に笑みを刷く。それはどこまでも静かで、深く底のない湖のような笑顔。
それを夜空の番人に贈り、蒼司はその細い指先をカーテンの飾り紐に掛けた。
それは音もなくするりと解け、罪咎に慄くように深緑色のカーテンは揺らいだ。
やがてそれが閉ざされた時、どこからか現れた薄墨色の雲が月を覆い隠した。
                            
                                       <了>


このページのURL:

ページ新規作成

新しいページはこちらから投稿できます。

TOP