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ゴミ捨て場で人間を拾った男

[○○]⊂(・∀・ )棚の裏から、埃にまみれたテープを発見したよ。
          チラシに包まれていて、そこには裏書きがあるんだ。読んでみよう。

『長すぎる記録です。 25レス ほど使用するので、不要の折はスルーを
 お願いします。
 ……済みません、嘘吐きました。ごめんなさい。でも後悔はしていません。』

|>PLAY ピッ ◇⊂(・∀・ )よく分からないけど再生!

 窓のブラインドに切り取られた夕日が、部長の机を縞模様に照らしている。
「もちろん、強制じゃあない。ただ……少し、意外だぞ」
 部長の薄くなった頭頂部にも、数本の陽光が斜めに走っている。
「君なら、喜んで引き受けてくれる、と考えていたんだが」
「いえ、お話そのものは、有り難く思います」
 原田は、言葉を選ぶために、少し間を開けてから答えた。
「……宜しければ、数日、考える時間を頂きたいのですが」
「そうか。まあ、急な話だしな。いいだろう」
 部長は得心顔で頷くと、椅子の背に深く体を預けて、小さく笑った。
「だが、長くは待てないぞ。代わりの人材は、いくらでも居るんだからな」

 原田は、会社からバスで二十分ほどの、古い賃貸アパートに住んでいた。
 一人暮らしを始めて、かれこれ六年も経つが、六畳一間の部屋にはさして物が
増えておらず、模様替えをするほどの家具もない。独身サラリーマンにはこれで
十分だと思っているし、実際、日々の生活には満足している。
 彼は、周囲の環境も気に入っていた。東京の郊外で、ほどよく田舎の気配も残り
交通の便もそこそこだ。歩いて行ける距離には、商店街とコンビニが混在している。
 不満など、考えても思い付かない。ただ……不安にならないかと言えば、嘘だ。
 人生が停滞しているかのような、物足りなさがある。
 ふと時計を見ると、一本の電車が到着する時間だった。
 ほどなく、隣人も帰って来るだろう……いつからか、彼の帰宅時間が、感覚に
しっかりと刻まれている。
 食卓として使っている折り畳みテーブルに突っ伏すと、原田は低く唸った。
 今朝、部長の提案に即答できなかったのは、何故だろう。上司の言葉に間違いは
ない。昨年からずっと、自分も望んでいた事なのに。
 流されるのは嫌いだ。けれども、立ち止まるのは、もっと嫌いだ。
 まとまらない思考に苛々とテーブルを叩いていると、玄関から不協和音が響いた。
 アパートの隣に住むイタリア人が、ドアをノックしているのだ。原田は、胃の辺りが
重くなるのを感じた。

「開いてるぞ」
 応えると、部屋へ入ってくる一連の物音がして、背後から、アクセントのおかしな
日本語が陽気に言った。
「こんばんは、原田さん。ただいま帰りました」
 声の持ち主は、そのまま上がり込むと、勝手知ったるといった態度でテーブルの
向かいに座る。
「今日は、寒かったですね。原田さんは、まだ、こたつを使わないんですか?」
「あー」
「明日は、もっと寒いそうです。原田さんは、寒いの大丈夫ですか?」
「んー」
「日本の冬は初めてなので、とても楽しみです。日本では『こたつみかん』をする
そうですね。原田さんも『こたつみかん』をしますか?」
「まーな」
「原田さん……どうしたんですか? 元気が無いですか?」
「……あのなぁ、ニコーラ」
 のろのろと顔を上げ、原田は、隣人の突き出た額辺りをぼんやりと見やった。
 彫りの深い顔は縦長で、最近短く切った黒髪が、意外と小作りな頭を取り巻いて
いる。硬く立ったそれは芝生のようだったが、彼には似合っていた。あれが、どうして
伸びると巻き毛になるのか。原田には、不思議で仕方がない。
 照明によっては青ざめて見える白い肌が、頬と鼻の先だけ赤くなっている。確かに
そろそろ暖房が必要だ、と原田は思った。こたつを出して、電気ストーブも用意して。
「悪い知らせが、ある」
 見上げる顔が、気遣わしげな表情を浮かべた。高い座高から、肩を丸めるようにして
こちらを伺っている。天井の明かりを背にすると、彼の灰色の瞳が黒っぽくなるようで
原田は安心した。
 もっとも、これは気のせいだ。暗がりで間近に見ても、彼の瞳は灰色のままだし
その目が近付く度に、原田は落ち着かなくなった。
「実はな……まだ、飯を炊いてないんだ」

「はい」
 返事をしてから、隣人の表情が困惑のそれに変わる。
「ええと、何ですか?」
「それにな、おかずになるようなものが、何もない。ラーメンは先週、全部食っちまったし」
「ご飯が、無いんですか?」
「飯はあるんだけどな。買い物するの、忘れててな……何か、食うもんあるか?」
「ああ、お腹が空いているんですね」
 良かった、と笑って、隣人は立ち上がった。
「今日は、私が夕ご飯を作ります。パスタでいいですか?」
「頼む。仕事の後なのに、悪いな」
「いいえ、いつも作ってもらっているので、ええと、おたがいさま、です」
 また増えたらしい語彙を得意げに使って、彼は部屋を出て行く。大きな体が視界から
消えて、原田は安堵とも疲労ともつかないため息を漏らした。
 隣に住むイタリア人は、ニコーラ・バルダッチーニという。
 去年の夏に、原田がゴミ置き場から拾った男だ。実際には、落ちていたのではなく
行き倒れかけていたのだから、救出したと言う方が近い。だが、原田にはどうしても
自分がバルダッチーニを救ってやった、などとは考えられなかった。
 今では、あれは間違いだったのではないか、とすら思える。
 原田がバルダッチーニにした事といえば、食事と休息を与え、洗濯した服を着せて
送り出したくらいのものだ。その中には、蹴ったり怒鳴ったりという、彼にとって
有り難くないであろう行動も、過分に含まれていた。
 俺は、何もしていない。
 それなのに何故、彼はこのアパートに戻って来たのだろう。国も、仕事も置いて来る
ほどの、何がここにあると言うのだろう。
 そして……どうしてバルダッチーニは、俺を好きだなどと……。
「馬鹿が」
 壁を睨んで、ひとりごちる。
 原田がどんなに遅く帰っても、バルダッチーニは気にしない。
 連絡もせず、友人たちと飲んで来ても、彼は文句も言わない。
 最近では、原田の方が気になって、用も無いのに真っ直ぐ帰宅してしまう。

「それでいいのかよ」
 好きだの、愛しているだのと言いながら、何も要求して来ない。
 やっぱり、その程度だったのだろうか、と思ってしまう。
「……根性無しが」
 そうとも。あいつだって立派な大人なのだから、このままでは何の進展も望めない
事くらい、分かりそうなものだ。仲の良い隣人で十分なら、愛してるなんて
言わないで欲しかった。
 それ以上を望むなら、向こうから仕掛けて来ればいい。
 自分からなど、絶対に無理だ。

「うまい! やっぱり、本場の人間が作ると違うな」
「ありがとうございます。たくさん食べて下さい」
 にこにこと笑うバルダッチーニに、返事代わりの頷きを返しながら、原田は山盛りの
パスタを一心にむさぼった。食っていれば、余計な事を話さずに済む。
 バルダッチーニが用意した夕食は、よく分からないがチーズ味だった。以前にも
トマト味やらクリーム味やらと作ってくれ、そのどれもが美味しかった。原田自身は
缶詰やレトルトのパスタソースでも大満足なのだが、たまにバルダッチーニの手料理を
食べると、味の格差に感動してしまう。
 何がどう違うのだろう、と思いながら、黙々と食べていると、バルダッチーニが
口を開く。
「スープはどうですか?」
「これもうまい。俺、豆好きだし」
「原田さんは、嫌いなものが無いので、とても……たすかります、ですか?」
「うん、助かります、で正解だ……きのこなんて、よく有ったな」
「缶詰です。駅前のスーパーで、買いました」
「こんなの、缶詰で売ってるのか。すごいな、最近は」
「本当は……ええと、乾燥、したものの方がいいです。でも、手抜きをしました」
「へー。干し椎茸みたいなもんか? ま、何でもいいや。うまいし」
 またひと掬い、きのこごと麺をかっ込むと、時間をかけて味わう。つい、頬を緩めた
原田がふと顔を上げると、やはり笑顔のバルダッチーニと目が合った。

 何をやっているんだ、俺は。
「……て事は、豆も缶詰か?」
「いえ、違います。これは、今日のお土産です」
「スープが、か?」
 すると、バルダッチーニは少し考えてから説明する。
「ええと、ですね。豆とソーセージの煮込み、が残ったので、それを使いました。
私の田舎では、夕ご飯の残りで、朝ご飯に作ります。パン?……を入れたりも、します」
「ほう」
「日本には、色々な豆が売っているので、作ってみました。チーフも美味しいと
言ってくれました。でも、たくさん作ったので、余ってしまいました」
 最近、皿洗いから昇格したらしいバルダッチーニは、自慢しつつも照れがあるのか
そこで器用に肩をすくめて見せた。こうしたジェスチャーを目の当たりにすると
やはり彼は外国人なのだな、と思う。言葉も生活も不自由していないようだが、彼は
まだ、日本に住んで一年足らずの新人なのだ。
 そこまで考えて、原田ははっとした。だからどうした。放って置け。
 口では、会話を途切れさせまいと、当たり障りのない言葉が続く。
「そうか。残り物を捨てないのは偉いぞ。つうか、何料理屋なんだ、あんたの店は?」
「たこくせき、りょうりや、だそうです。昼間が食事で、夜がお酒のお店です」
「じゃあ、イタリア人は大活躍だな。良かったじゃないか」
「はい。原田さんのおかげです」
「……なんで、俺なんだよ」
 むっとして、原田はバルダッチーニを睨んだ。時々こいつは、おかしな事を言う。
「自分で選んで、探した職場だろ」
「でも、私は……原田さんが私の作った料理を、美味しいと言って食べてくれるまで
料理を作る仕事をしようとは、思っていませんでした」
 言って、バルダッチーニは何故か居住まいを正す。
「だから、原田さんに感謝しています」
 まただ。
 俺は、何もしていないのに。こいつの為に何かしてやろうだなんて、考えた事すら
ないのに。この馬鹿外国人は、勝手に都合良く思い込んで、俺を追い詰める。

「まあ、切っ掛けはどうあれ、だな」
 視線を逸らせて、原田は呟くように言った。
「自分で決めた道なんだから、一人前になるまで、しっかりやれよ」
「はい、頑張ります」
 バルダッチーニは、元気良く応えて食事に戻る。そっと伺うと、口いっぱいに
パスタを頬張ったまま、笑みを返された。そのお気楽そうな顔に、原田の苛立ちが増す。
 あんたは、何がしたいんだ。こんな事がいつまでも続くなんて、信じてる訳じゃ
ないんだろう?
 それでも、原田は何一つ言い出せず、時間は、ただ過ぎていった。
「原田さん、お休みなさい」
「おう、お休み」
 いつもの台詞、いつもと同じ笑顔。しかし、あの夏の日以来、バルダッチーニは
原田の部屋に泊まり込もうとはしなくなっていた。
 なんとなく、いつもの癖で玄関まで付いて行くと、三和土に下りても見上げる位置の
顔が、体ごと振り返る。
 灰色の目に真上から覗き込まれて、原田は反射的に身構えるが、バルダッチーニは
ただ、頭を下げただけだった。
「……ニコーラ」
 無意識に、言葉が口をついた。
「明日から、しばらく来なくていいぞ」
 瞬間、きょとんと開かれた目に、原田の心臓が音を立てる。
「ちょっと、仕事が忙しくなるから。飯、待たせるのも何だし」
 慌てて言い添えると、原田は追い出すように手を振った。
「残業するから、飯は食って帰る、って言ってるんだよ。何か文句あるのか」
「いえ……分かりました」
 声のトーンが少し落ちた気がしたが、バルダッチーニの表情は変わらない。
「また、忙しくなくなったら、教えて下さい」
 あっさりと承諾されて、原田が面食らっていると、バルダッチーニは返事も待たずに
部屋を出て行った。
 なんだよ、それ。

 原田は、閉められたドアを呆然と見つめた。のろのろと追い付く意識の片隅で、自分は
何かを間違ってしまったのではないか、と思う。これで、バルダッチーニはもう、この
部屋に来ることはない……自分が、言い出さない限り。
 気付いた途端に、視界がぐらりと揺れた。
 生暖かいものが、頬を伝い落ちる。訳が分からない。頭が混乱して、涙を拭うことすら
出来ない。胸が痛くて、ドアの向こうに消えた背中を追いかけたくなって、そんな自分に
腹が立つ。
「ばかやろ……」
 俺が帰るまで待つ、って言えよ。夕飯の口実なんかなくても来る、って言えよ。
 そんなに簡単なのか。もう諦めたのか。
 俺は逃げなかったのに、追い掛けてすら来ないのかよ。
「勝手にしろ」
 もう、限界だ。

「よお、ハラ」
 肩をつつかれて振り返ると、同僚の吉崎が立っていた。
「珍しいな、こんな所で」
「……まあ、たまには」
 ご飯を水で飲み込んで、原田がどうにか返事をすると、吉崎は食券を置きながら隣に
座った。
 会社帰りに立ち寄った牛丼屋は込み合っていた。入り口には、席が空くのを待つ客が
数人、所在無さげに立っている。原田のどんぶりは、あと半分ほどだ。さっさと食べて
出よう、と思ったところに、吉崎が口を開く。
「支店の課長に聞いたんだけど」
 視線だけ向けて応えると、吉崎はさっそく運ばれた水を飲んで続けた。
「お前さ、寮の申し込みしてないんだって?」
「ああ。別に必要ねーし」
「マジかよ。片道、一時間以上あるぞ? よく平気だな」
「いや、近くにマンション買ったから」

「……はあ?」
 目を剥いて驚く吉崎を放って、原田は牛丼の続きに戻る。
「え? ちょっと待て、買った?」
「うるせーな。食ってる時に邪魔すんな」
「何だよ、それ。お前、結婚でもすんのか」
「……あのな」
 仕方なく、食べる速度を落とした。あまり話したくない事ではあるが、後から詮索
されるのも面倒だ。
「付き合ってる女も居ないのに、どうやって結婚するんだよ」
「だって、マンションだろ? 家だぞ? 独身で家なんて買うか、普通?」
「俺の最終目標は、独立だからな。早めに落ち着いて、面倒を無くしたいんだ」
「お前……すげーな。その自信は、どっから出てくるんだよ」
 吉崎は、さらに声を落とすと。
「……で、高かったか?」
「まあ、そこそこな」
 実際には、六年間の貧乏生活で貯金しまくったため、契約時に四分の一ほど払い終えて
いたのだが、そこははぐらかしておく事にした。
「別に、一生そこに住む訳じゃない。後で賃貸にしてもいいし」
 まるで、ずっと以前から計画していた事のように、言葉がすらすらと出る。
 部長に待っていてもらった返事を告げてから、たったの半月ほどで、何もかもが
決まってしまった。来年の四月には、いくつかの部署から集められた人員を中心に
支社の開発室が本格的に始業する。
 吉崎も、原田と同様に支社へ誘われた一人だ。だが、自分が独身寮を断った事が
こんなにも早く知れるとは思ってもいなかった。
 もっとも、いつまでも隠しておけるものではない。原田が家を買ったという話も
あっという間に広まるのは目に見えている。
 別に、構わないか、と原田は思った。吉崎は親しい友人だが、私生活での親交は
ほとんど無いし、表面的な好奇心が満たされれば、深くは追求して来ない筈だ。
 問題は……これからの私生活に関わってくる人物は、たった一人なのだから。
「サラリーマンの内に、ローン組んどいた方が楽だろ……それだけだ」

「確かになぁ。うん……」
 つぶやくように言って、吉崎が箸を割る。
「俺も美代ちゃんの為に、少しは考えるかな」
「そうしろ。退職までローンが残ってたら、大変だぞ」
 じゃあな、と吉崎の肩を叩いて、原田はカウンターを降りた。膝に置いていた
ブリーフケースを抱えて、込み合ったドアをくぐり抜ける。
 時計を見れば、まだ六時過ぎだった。
 この二週間というもの、原田は退社後の時間つぶしに頭を悩ませ続けていた。
 残業など無いのだ。とっさの嘘を隠し続けるためだけに、一人でぶらぶらと町を
うろつくのが、原田の日課になってしまっていた。
 そして、夜に帰宅しては、寝るまで待っている。
 もしかしたら、隣人が訪ねて来るのではないか、と期待して。
 このままでは駄目だ、と繰り返し思った。自分は動き始めてしまった。このまま
なし崩しに離れて終わってしまうくらいなら、はっきりとケリをつけた方がましだ。
 本当は、もう分かっているのだ。長い間、疑問すら感じた事がなかったのに、この
二週間というもの、一人で夕食をとることすら辛くなっている。
 近くの書店へ向かっていた足を止めて、バス停に引き返す。
 こんなのは、もう終わりだ。あの馬鹿と、きっちり話をつけなければ。
 それから。
 思いきり、ぶん殴ってやる。

 どんな理由で好きになったのか、今も分からない。
 けれども、彼以上に好きになれる相手など、もう一生現れないだろう。
「原田さん」
「おう」
 呼びかけると、即座に返事が返ってくる。
「……んだよ」
 黙って見つめると、眉をしかめて睨み返される。
「こら、寄るんじゃねえよ」
 近付くと、手を振って追い払おうとする。けれども、彼は決して嫌だとは言わないし
本気で拒絶している訳でもない。
 バルダッチーニには、そんな原田の反応が嬉しくもあり、不思議でもあった。これまで
何度か恋はして来たが、彼のような相手は初めてだ。
 テレビ画面に集中している横顔に、もう一度呼びかけてみる。
「原田さん」
「うるせえな。黙って観てられないのか」
 原田はビデオを一時停止させると、ソファにふんぞり返ってこちらを見上げた。
 ブラウン管からの光が、原田の肌をオレンジ色に照らしている。暗い部屋に浮かび
上がる体は、季節柄しっかりと着込んでいるし、体温を感じるほどの距離でもない。
 それでも、自分の部屋で、同じソファに好きな男が座っているのだ。これで
落ち着けと言う方が無茶だと、バルダッチーニは思う。
「飽きたとか言うなよ。あんたが観たいって言うから、借りてきたんだぞ」
「いえ、映画は面白いです。でも……やっぱり、明かりを点けませんか?」
「何でだよ。暗い方がいいだろ、映画館っぽくて」
 原田の表情からは、危機感や嫌悪感というものが全く伺えない。バルダッチーニが
キスした時も、勢い余って想いを打ち明けた時にも、原田は怒るだけだった。
 信頼されているのだろうか、とも思う。確かに自分は、無理強いをしても良いこと
など無いと、経験で知っている。だが、ここまで無防備でいられると、いつか抑制が
効かなくなりはしないかと、不安になった。
「いいから、終わりまでちゃんと観てろ。映画を作った人間に失礼だぞ」
 言うと、原田はまたビデオを再生してしまった。それきり、画面から動かない横顔に
バルダッチーニも諦めて、映画に集中しようと姿勢を正す。

 でも、原田さん。この先は、どう考えてもラブシーンなんですが。
 バルダッチーニの不安をよそに、映画は刻々と進み、物語の中で出会った男女は
情熱的に体を重ねていった。そっと隣を伺うが、原田は平気な顔で画面を見つめている。
バルダッチーニもしきりに視線を動かしていたおかげで、ラブシーンは半分も見ない内に
過ぎてしまった。
 やはりこれは、信頼されているのではなく……意識されてすらいないのだろう。
 映画が終わって、バルダッチーニが部屋の明かりを点けると、原田が低く呟いた。
「……納得いかねえ」
「はい?」
「どうして、女を置いて行っちまうんだ? 連れてってやればいいのに」
「それは……彼は、悪いことをしたので、一人で逃げたんです。一緒に居ると、彼女も
危ないと思って」
「警察に出頭する気もないくせに、関係ないだろ、そんなの。俺は、気に入らない。
話としては分かるけど、同感は出来ない」
 原田は、巻き戻されたテープをケースに戻すと、独り言のように付け加えた。
「好き合ってるのに置いて行かれるなんて、女が可哀想だ」

 バルダッチーニは、その時に答えられなかった言葉を胸の内で繰り返した。
 でも、どうにもならない事が、世の中にはあるんです。
 どんなに愛していても、離れたくなくても、受け入れなくてはならない別れは、確かに
存在するんですよ。
 例えば、今のように。
 アパートの廊下で、バルダッチーニは、もう一度だけ原田の部屋を振り返った。
 明日から、来なくていいと言われてしまった。そして、自分は素直に従うしかない。
 自分が、少し臆病な性格だとは分かっている。大きな失敗をしたばかりで、慎重に
なり過ぎている事も。
 だが、どうにも出来ないのだ。キスしても、抱きしめても、原田は許してくれた。
毎晩のように部屋へ押し掛けても、嫌な顔一つせずに迎えてくれた。
 では、それ以上は? 彼は、どこまで許してくれるのだろう。嫌いではないと
言っていたが、自分が何をしたら、彼に嫌われてしまうのか。

 このままでは、想いを忘れる事も出来ない。彼に触れたくて仕方ないのに、自分を
押さえ付けてまで側に居続けるのは、多分、もう無理だ。
 原田にはきっと、はっきり言うまで分かってもらえない。
 自分の部屋へ戻ると、バルダッチーニは暗い部屋を見据えて、心に決めた。
 今度、原田の部屋に呼ばれたら、正直に言おう。
 すぐにでも抱いてしまいたいくらい、好きなのだ。それが駄目なら。
 駄目なら……今度こそ、きっぱり諦めるしかない。恋人になれないなら、せめて友人と
して、隣に居させてもらうためにも。
 けれども、自分は本当に、そんな事が出来るのだろうか。

 しかし、いつまで待っても、原田からの連絡は無かった。
 あっという間に一週間ほどが過ぎ、日曜日がやって来る。
 バルダッチーニの仕事にカレンダー通りの休みなど無いが、原田は会社勤めだ。
休日なら彼も暇だろうと思って、ドアを叩いてみる。
 しかし、原田は出かけいているのか返事がなく、ドアの鍵も閉まっていた。
 そして、さらに時間は過ぎていく。
 もしかしたら、このまま会えなくなってしまうかも知れない。不安になって日付けを
数えると、意外な事に、まだ二週間しか経っていなかった。
「バル、手元が留守になってるぞ」
 背後から、低い声で注意されて、慌てて洗いかけの皿を持ち直す。
 いくつか料理を作らせてもらっているとは言え、バルダッチーニはまだまだ新人だ。
厨房が忙しくなれば、洗い場から食材の仕込みまで、出来る仕事は何でもやらされる。
 今も皿洗いの後には、ソース用の野菜が、バルダッチーニに刻まれるのをまな板の
上で待ちかねている状況だ。
「バル! それ終わったら、アイヨリも追加な!」
「はい!」
 グリルの辺りから響く声に、こちらも大声で応えると、バルダッチーニは両手を丹念に
洗って、まな板に向かった。日本語に加えて、フランス語や英語、果てはインド料理で
使われるスパイス名までが頻繁に飛び交う環境にも、なんとか付いていっている。
 今日は、軽めの料理や、魚が多く出ているらしい。潰したニンニクをボウルに落とし
ながら、原田はニンニクも好きだったな、と思い出す。

 冬は白身の魚が美味しいし、素材の良いものには、こうした簡単なソースが合う。
次に作るマヨネーズ風のソースも、原田は気に入ってくれそうだ。嫌いな食べ物が
無いという、料理を提供する側には大変有り難い存在だが、彼にも好みはある。
 麺類が大好きで、パスタも柔らかく茹でた細麺を好む。
 バターやチーズに目がないが、すぐに満腹になってしまう。逆に、あっさりした味の
ものや香辛料の効いた料理だと、驚くほど良く食べる。
 ナイフを使うような食事は、苦手らしい。食べる際に、手間が掛かる大きさのものは
難しい顔で突きまわすのだ。箸で育ったからだろう、簡単に口へ入る料理でないと
食卓は静寂の内に過ぎてしまう。
 慌ただしい一日が終わり、交代の時間になっても、バルダッチーニは原田の事ばかり
考えていた。彼の居ないアパートに帰りたくなくて、頼まれてもいないのに、ぐずぐずと
テーブル用のナプキンを畳んでしまったりする。
「バルちゃん、なんか大人しいな」
 言われて顔を上げると、早めに出勤していた同僚が、ジャガイモの皮を剥きながら
こちらを見ていた。
「今日は、イカが余ってるってよ。持って帰るか?」
「いえ……要りません」
「そっか。彼女、今日も帰り遅いんだ?」
 余り物を持って帰る度に、原田がうまい、うまいと食べてくれるのが嬉しさに
つい同僚に報告してしまうので、バルダッチーニの隣人については、ダイナーの全員が
何となく知っていた。だが、原田さん、としか伝えていないので、どうやら性別を
勘違いされているらしい。
「喧嘩でもしたか?」
「……杉浦さん」
「ん?」
「原田さんは、男性です」
「……あ、そうなの」
 そうなんです。
 小さくて、元気で、とてもやさしいけれど、男性なんです。
「でも、好きなんだ?」

 その言葉に、驚いて杉浦を凝視すると、ジャガイモを回す彼の手が止まってしまった。
「なんだよ、その顔は。違うのか?」
「いえ、あの……どうして」
「そりゃ、分かるっつーの。原田さん、だっけ? その人の事話してると、バルちゃん
頭に花でも咲いたみたいになってるし」
「はなでさ?」
「浮かれてる、っての。で、今は沈んでる。まあ、それはともかくとして」
 杉浦は、剥き終わったジャガイモをボウルに放り込むと、次の一個を弄びながら
真剣な顔でバルダッチーニを見つめた。
「バルちゃんはさ、才能あるよ。真面目だし、料理人で十分食ってけると思う」
 何の話が始まったのか、さっぱり分からないまま、バルダッチーニは頷く。
「そりゃ、まだまだ頑張らなきゃだよ? でもな、この店の皆は、結構バルちゃんに
期待してる」
 だから、と続けて、杉浦はまたナイフを動かし始めた。
「こんな事は言いたくないけどさ……ぐだぐだ悩んでないで、しっかり仕事に集中して
欲しいわけ。好きなら好きで、さっさと片つけて来い」
 日本語は、難しい。回りくどい表現が多くて、躊躇うことも多い。
 けれども、杉浦の台詞は恐ろしいまでに明確だった。
 バルダッチーニは、震える手でナプキンの束を片付けると、杉浦に頭を下げた。
「すいません」
 自分は、職場の人間にまで、迷惑をかけてしまっているのだ。
「ちゃんと、かたつけて、きます」
「……うん。まあ、頑張れや」
 杉浦は、顔だけ上げて笑うと、ジャガイモを放り投げた。
「振られたら、やけ酒くらい付き合ってやるから」

 コートも片付けないまま、バルダッチーニがソファに転がっていると、アパートの
階段を上がる足音が聞こえた。
 じっと耳を澄ませるが、足音は下の階で途切れ、ドアが閉まる音が続いた。
 今日も、原田は残業なのだろうか。

 どこかから、音楽の低音だけが小さく響いている。通りを走る車の排気音が、やけに
大きく聞こえる。
 不意に、天井からどしんと物音が立った。四階の住人が、何かを落としてしまったのか。
 とても静かだ、とバルダッチーニは思った。
 壁の薄いアパートで、バス通りに面した立地だというのに、原田が居ないだけで
夜はこんなにも静かだ。いつもなら、一緒に夕飯を食べている時間だ。小さなテーブルに
向かい合って、取り留めもない会話をして。
 また、足音が聞こえた。今度は、真っ直ぐこちらへ向かって来る。
 原田が帰って来たら、彼の部屋を訪ねてみよう。煩がられてもいい、きちんと話をしよう。
今日こそ、この想いに決着をつけるのだ。
 つらつらと考えながら、隣のドアが開くのを期待していたバルダッチーニは、突然
自室のドアをノックされて飛び上がった。
「は、はい!」
 条件反射で返事をして、何も考えずにドアを開ける。
 そして、目にした光景に固まってしまった。
「……はらだ、さん」
 喉の奥から、途切れとぎれに声が出る。
「あ、あの……こんばんは」
「おう」
 バルダッチーニが呆然としていると、原田はマフラーを解きながら、強引にドアの
隙間を通り抜けた。押し退けられたバルダッチーニは、どうにかドアを閉めたものの
原田の後ろ姿を目で追いながら、玄関に立ち尽くすしかない。
 原田が目の前に居る、という現実に、バルダッチーニは混乱していた。仕事帰りに
そのまま来たらしい原田は、滅多に見ないスーツ姿だ。厚手のコートを羽織って
手には鞄とマフラーを下げている。
 彼は、何をしに来たのだろう。
「上がるぞ」
 靴も脱いで、すっかり部屋に入ってしまってから、原田が振り返る。
「……寒いな。暖房入れてないのか」
「は、はい。すいません」

「まあ、いいけど。ニコーラ」
 手招きされて、バルダッチーニはふらふらと原田に近付いた。
「ちょっと、そこに座れ。話がある」
 促されるままソファに腰を下ろすと、原田も隣に座る。
「……なんか、喋りづらいな、こういう椅子は」
 言いながら片足を組むと、真横に座り直すので、バルダッチーニも合わせて肘掛けを
背にした。小さなソファなので、両端に離れていても、膝がぶつかりそうだ。
「無駄話してもしょうがねぇから、簡単に言うぞ。俺は来月、引っ越しをする」
「……え」
 唐突な言葉に、反応が遅れる。
「ひっこし、ですか?」
「そうだよ。理由は、働く場所が変わるからだ。このアパートを出て、通勤の楽な……
会社に近い所に、住む事にした」
 原田が何を話しているのか、よく分からない。
「それで、だ。俺はあんたに、訊きたい事がある」
 分かりたく、ない。原田は、どこかに行ってしまうのだろうか。
「あんたは……何だ、その」
 不意に、視線を逸らされた。居心地悪そうに眉をしかめて、うなじを掻いている原田の
姿に、腹の底から不安が押し寄せる。
 行ってしまうのだ。
 まだ、何も言っていないのに。彼の気持ちを確かめてすらいないのに。側に居る事すら
出来なくなってしまうのか。
「だから……あんたが、俺の事を、だな」
 原田は、仕方なく、といった様子でこちらを向いた。見上げてくる顔が、とても遠く
感じられて、衝動的に手を伸ばす。
「まだ……」
「嫌です」
 心では抱きついてしまいたいのに、震える手は、原田のコートを掴んだだけだった。
「行かないで、下さい」

「……それは出来ない」
 原田の視線が、強く引っ張られているコートにちらりと落ちて、また戻る。
「行く、行かないじゃなくて、もう決まった事なんだ。俺は、ここを出て行く」
「どうして、ですか」
「だから、仕事が……」
「私が、何か悪い事をしましたか? 私が、嫌いだからですか?」
 焦りに逸るあまり、バルダッチーニは縋るように身を乗り出す。
「行かないで下さい……本当に、何もしませんから。原田さんの嫌な事は、絶対に
しませんから。お願いです……」
 せめて、側に居て下さい。
 気が付けば、バルダッチーニは原田に覆い被さっていた。小柄な原田の体が、力一杯に
握り締めたコートごと、ソファの肘掛けに押し付けられている。
 それをしているのは自分だ、と分かっているのに、手を離す事が出来ない。
 感情と行動がばらばらになり、身動きが取れなくなったバルダッチーニは、間近に
迫った原田の顔をじっと見下ろす。こんな状況で、どうして原田は怒ってくれない
のだろう。何故、ただ見返してくるのだろう。
「原田さん」
 逃げて、下さい。今すぐに、僕を嫌いだと言って下さい。
 このままでは、きっと……大変な事をしてしまうから。
「……はらだ、さん」
「言いたい事は、それだけか?」
 頬に冷たい何かが触れて、びくりと身を竦めたバルダッチーニは、遅れて、それが
原田の指だと気付く。
「何も、しないのか」
「……え」
「あんたは、俺が好きなんだろ?」
 躊躇いがちに、そっと目元を触ってくる指先は、微かに震えていた。
「だったら……行くな、とか、嫌いか、とかじゃなくて、他に言う事が無いのか」
「あの……」
 バルダッチーニは、今度こそ完全なパニックに陥った。
 慣れた筈の日本語が、全く耳に入らない。そればかりか。

「と……その」
 まともな言葉ひとつ、出て来ない。
「いえ、あ……」
「なんとか言えよ」
 答えを考えるより早く、原田の腕が首筋に回された。
 外気をまとった布地を通して、しっかりとかたい筋肉の感触が伝わる。引き寄せられた
目の前には、シャツのカラーと揺るんだネクタイ。そして、額に重なる、冷たい頬。
「あんたは、俺をどうしたいんだ」
 バルダッチーニの肩から、力が抜けた。そのまま、倒れ込むようにして体重を預けると
原田のコートから手を離す。
 重なる体に、胸が痛くなった。
 こうして抱きしめてもらえるのを、どれほど望んでいたことか。彼から手を伸ばして
くれる事を、どんなにか夢見ていただろう。
 けれども、いざ現実となると、喜びよりも不安が先に立つ。
 バルダッチーニは、恐るおそる口を開いた。
「……原田さん」
「うん」
「私は、原田さんが好きです」
 ゆっくりと、ソファの隙間に手を入れる。身じろぎ一つしない原田の体を、衣服ごと
腕の中に閉じ込める。
「原田さんが許してくれるなら……キスしたり、抱いたり、したいです。でも……
教えて下さい」
「……なんだ」
「原田さんは、私の事が好きですか?」
 首に回されている原田の腕が、びくりと引きつるのが分かった。
「それとも、最後だから……もう、お別れだから、やさしくしてくれるんですか?」
「この……馬鹿野郎!」
 突然、原田が飛び起きた。ソファから落ちそうになりながらも、両腕を振り回し
バルダッチーニの頭や肩をめちゃくちゃに叩いてくる。
「なんだよそれ……なんなんだよ! お、俺が、そんな……そこまで親切じゃねえぞ
俺は!」

「え? あ、ごめんなさ……」
「うるさい! もう、てめぇなんか知るか! 離せ、この野郎!」
「痛い、痛いです……原田さん、落ち着いて」
 ばたばたと暴れる足をどうにか捕まえると、バルダッチーニは原田を横抱き持ち上げて
ソファに座らせる。もう少しで、頭から床に落ちてしまうところだった。
 払い除けるような仕草を繰り返す腕を押さえると、原田はやっと大人しくなった。
「大丈夫ですか?」
 そっと、原田のうつむいた顔を覗き込んで、バルダッチーニは息を飲む。
「原田さん……?」
「……分からねぇんだ」
 喉を震わせて、原田が低くつぶやいた。
「お、男に、好きだとか言われて……そんなの、分かるわけ、ないだろ」
 そこで鼻をすすると、目に溜まっていた涙が、一粒こぼれ落ちる。
「あんたは、卑怯だ」
「ひきょう……?」
「俺に、あんな……しておいて……俺は、嫌いじゃない、って言ったのに」
 唇を震わせて、原田がさらに下を向く。
「俺は、嫌じゃない、のに……なにもしねぇし」
「それは……」
「来るな、って言ったら、本当に来ねぇし」
「その……ごめんなさい」
 何故か、悪い事をしてしまった気がして、思わずバルダッチーニは頭を下げる。
「分かれば、いいんだ」
 言って、原田が顔を上げた。涙の残る目で、怒ったように睨み付けてくる。
「で、どうなんだよ」
「どう……?」
「あんたは、俺と離れてもいいのか」
「それは……」
 またしても、会話の方向が全く分からない。さっきから、原田の言動が何を意図して
いるのか、バルダッチーニには見当も付かなかった。

 それでも、言わなければならない答えは、一つだけだ。
「嫌です。離れたく、ないです」
「俺の事が、好きか?」
「はい。好きです」
 これだけは、胸を張って言える。
「私は、原田さんを愛してます」
「なら、付いて来い」
 え? と、間抜けな声が出た。
 この人は、突然何を言い出したのか。
「だったら、一緒に来い、って言ってるんだよ」
 じれたように身を乗り出して、原田が続ける。既に泣いてはいなかったが、寄せられた
眉の下で、真っ赤な目が不安そうに揺れていた。
「嫌なのかよ。だって……本当に、分からないんだ。俺だって、あんたと離れたい
訳じゃない。一緒に居る方がいい……それだけじゃ、駄目なのか? あんたの好きって
そういう事じゃないのか?」
「あの、待って下さい。原田さん……一緒に、って、どこへ」
「どこでもいいだろ! さっさと決めねぇと、置いてくぞ!」
 怒鳴られて、バルダッチーニは我に返った。これは、のんびりと考えている場合では
ない。一体全体、何がどうなっているのか分からないが、原田が行ってしまうと言うなら。
「い、行きます!」
 勢い込んで喋ったため、喉がつまりそうになる。
「一緒に、行きます。連れていって下さい」
 言った途端、バルダッチーニの手の中で緊張していた原田の腕から、力が抜けた。
 どさりとソファの背に倒れて、原田が大きく息を吐く。
「……原田さん?」
「よし。それでいいんだ」
 何故か、満足げに頷くと、原田はバルダッチーニを押し退けて立ち上がった。
 まだ混乱が抜けきっていないバルダッチーニは、そのまま歩き去ってしまう原田の
背中をおろおろと見守るしかない。
「おい、ニコーラ」

「は、はい」
 玄関先で振り返ると、原田はバルダッチーニに指を突き付けて、こう宣言した。
「引っ越しは、来月の十日だ。それまでに荷造りしておけよ」
 そして、返事も待たずに部屋を出てしまう。
 残されたバルダッチーニは、それから数分ほど、放心して座り込んでいた。
「はい……?」
 間の抜けた声が、自分の口から出る。
「ええと……どういう、ことですか?」

 これは、どういう事なのだろう。
 真新しい板張りの廊下に立ち尽くして、バルダッチーニはぼんやりと辺りを見渡した。
 廊下の両側と正面にあるドアは、それぞれが別の部屋に通じている。突き当たりは
リビングで、そこからベランダに出る事も出来る。
 ここは、どこなのだろう。
 原田に指示されるまま、アパートを解約し、少ない家具や荷物を整理して、それらを
積んだトラックを見送った。電車で一時間以上もかかるアパートとマンションを行き来
して、命令されるままに、掃除から荷解きまでを手伝った。
 だが、全ては忙しい仕事の合間を塗っての作業だったので、引っ越しが終わった今も
バルダッチーニは、これは現実なのかと疑っている有り様だった。職場のある駅までの
路線はどうにか覚えたが、ここが何と言う街なのかすら知らないのだ。
 そして今、疲れ切った体と頭で、再度くり返す。
 自分は一体、どうしてここに居るのだろう。
「おい、ニコーラ。突っ立ってないで、手伝え!」
「は、はい!」
 その声に、弾かれるようにして振り返ると、玄関からすぐのドアで、原田が手招き
していた。
「なんですか?」
「なんですか、じゃねえよ。さっさと片付けないと、寝れねぇだろ」
 部屋に入って、ようやくバルダッチーニにもその意味が分かった。

 つい先日まで暮らしていたアパートが、すっぽり入るほどの部屋に、ベッドが二つ
並んでいた。そして床には、包装を解いたばかりの寝具が、乱雑に積み上げられている。
同じ大きさのベッドに、お揃いの布団に、色違いのシーツ。
「どっちにする? 俺は黒がいいな」
「はい。では、私は青ですね」
「よし、決まりだ。自分のは自分で広げろよ」
 言って、早速布団を広げ始める原田に習って、バルダッチーニもベッドを作る。
「ベッドだー! すげえ!」
 ばさばさと音を立てながら、あっという間に寝具を重ねてしまうと、原田は嬉しそうに
叫んで、掛布の上に倒れ込んだ。
「ふかふかだー」
 そして、ごろりと仰向けになると、天井に手を伸ばす。
「寝るだけの部屋だー。俺も出世したもんだなー」
「あの……原田さん」
「あー?」
「ベッドが、好きなんですか?」
 聞きたい事は山のようにあるのだが、口から出たのは、あまりにも間抜けな問いだった。
「おう。実家じゃあずっと、弟と二段ベッドに寝てたからな」
 ご機嫌を絵に描いたような顔で、原田が答える。
「あんたも、ベッドの方がいいだろ? 一番安い間取りだから、和室とか無いんだよ」
「はい。大丈夫です」
 曖昧につぶやいて、バルダッチーニは寝室を眺める。背が高いからと、取り付けを
任されたカーテンや、二人の衣類を適当に突っ込んだだけのタンスには、確かに身覚えが
ある。しかし。
 原田には、弟がいたのか。
 考えれば、自分は原田の事を何も知らない。家族構成も、職業も、正確な年齢すらも。
 それなのに……一緒に暮らす?
 唐突に理解して、バルダッチーニは目眩を覚えた。
 一緒に、暮らしてしまうのだ。もう、アパートは解約してしまった。言われるままに
書いた書類で、住所や電話番号も移っている。

「はらだ、さん」
 ふらふらと近付いて、ベッドの端に腰を下ろす。
「ここは、どこですか?」
「は? どこって……俺の家だろ」
「ですよね……あの」
 見下ろすと、寝転ぶ原田と目が合った。
 意を決してそっと屈み込むが、原田は少し眉をひそめただけで、逃げ出したりしない。
「キスしても、いいですか?」
「……んなの、聞くなよ」
 どうしよう。
 恐るおそる手を伸ばし、視線ごと背けられる顔を捉えて、唇を重ねる。
 何度か誘うように角度を変えると、驚いたことに、原田が応えてきた。初めの内は
ゆっくりと、ついばむだけだったが、バルダッチーニがベッドに上がり全身で抱き込むと
次第に舌を使って深く絡ませてくる。
 原田に全く経験が無いなどとは思っていなかったが、それでもバルダッチーニは
その慣れた反応に動揺した。やはり、これは夢ではないのか。原田が、自分のキスに
応えて、しかも……背中に手を回している。
 ずっと続けていたかったが、どうしても現実だと確かめたくて、バルダッチーニは
身を起こして原田の顔を覗き込んだ。震える瞼が何度か瞬きをして、濃い茶色の瞳が
怪訝そうに揺れる。
「……どうした」
「いえ、その」
 低い声も、少し機嫌の悪そうな表情も、いつもの原田だ。
 信じられない。
「……本当に、いいんですか?」
「ば……いちいち聞くんじゃねえよ」
 怒られてしまった。やはり、夢ではない。
「大体、俺には分からねぇんだから……」

 原田の手がバルダッチーニの服を握り締めている。
「あんたがいいように、してくれないと、困る」
 最後の言葉は、ほとんど消え入るような小声だった。ぴたりと重なった腹が呼吸に
合わせて上下し、伝わる体温に鼓動が増す。
 嫌いではない、と原田は言った。確かめようとしてもはぐらかされ、分からないと
繰り返す。けれども、もしかしたら……全ては、ただの照れ隠しなのではないか。
「原田さん」
 だとしたら。同じ言葉を聞かされながら、半年間も。
 自分は一体、何をしていたのだろう。
「愛してます……ずっと、一緒に居て下さい」
「あ、たりまえ、だろ」
「大好きです、原田さん」
「ニコーラ……それ、止めろ」
「え……なにが、ですか?」
「だから、その原田さんての、止めろって。こういう時は、その。なんだ」
 せわしなく辺りに視線を投げながら、原田が早口に言う。
「名前で呼ぶもんだろ、普通」
 その瞬間、バルダッチーニの頭が真っ白になった。
 先ほどとは別の意味で心臓が音を立て、背中に冷や汗が浮かぶ。
「……違う、か?」
「あの!」
 慌てて起き上がると、原田が驚いた顔で見上げてくる。
「お腹が、空きませんか?」
「は? なんだよ、唐突に」
「いえ、ですから……ご飯を食べて、お風呂に入って、それから」
 焦りのあまり、自分でも何を言っているのか分からない。
「落ち着いて、その……ゆっくり、続きをしましょう」
「……あ、うん」
 だが、それを聞いた原田はこくこくと頷くと、逃げるようにベッドを降りてくれた。
「分かった」

 そして、不自然なほど明るい声で続ける。
「やっぱり、あれだな。引っ越しソバだよな」
 笑いながらも、顔が赤い原田に、バルダッチーニは気付いていなかった。
 とりあえず同意の返事を返したが、引っ越しソバが何を意味する言葉なのかも
理解していない。
 もっと重要な事で、頭が一杯だったのだ。

 その夜、本物の風呂だと大喜びの原田が脱衣所に消えると、バルダッチーニは
大急ぎで行動を開始した。
 契約書でも、封筒でも、何でもいい。
 少ない家具の、あらゆる引き出しをこそこそと探りながら、バルダッチーニは祈る
ような気持ちだった。
 どこかに、必ず有るはずだ。出来れば手書きではなく活字で、願わくばカタカナか
ひらがなで、確実に読み方の分かるものがいい。
 本当に、どこまで自分は馬鹿なのだろう。
 愛する人と共に暮らして、全てを受け入れて貰ったというのに……彼の名前すら
知らないなんて。
 こんな事が知れたら、今度こそ、殴られるだけでは済まない。
 いや、それどころか。最悪、この家を追い出されてしまうかも知れない。
 リビングの捜索を諦めて、本棚のある部屋に向かおうとした時、風呂場の方から
水音と共に陽気な歌声らしきものが聞こえた。
 急がなくては。
 これから、ずっと暮らしてゆく筈の部屋の中で、なぜか泥棒のような後ろめたさを
抱えながら、バルダッチーニは必死で捜索を続けていった。
 ここはオートロックのマンションで、郵便も部屋番号だけの集合ポストで受け取る。
 そして、管理会社は、入居時に住人の名を記した表札をサービスで設置してくれる。
 だから、玄関ドアを開ければ、そこに自分と原田のフルネームが、アルファベットで
表示されているなどとは、ついぞ知らずに。

□ STOP ピッ ◇⊂(・∀・ )……どこかで観たような気がするな。
               あれ、テープのラベルに落書きがあるよ。

『皆様の期待を裏切る結果になってしまっていたら申し訳ないです。長々とレスを消費
 した上に、何もしていませんが、小出しにするよりはと思い一気に上げました。
 それでは、以上で決着という事で。失礼致します』

  • 今まで読んできた創作の中で一番好きです。定期的に見にきてしまいます。 -- 2012-07-06 (金) 02:43:08
  • ツンツンな原田とほんわかなバルのもどかしいやり取り、やきもきしながらも最後は萌え転がりながら読ませていただきました。その夜をくわしく!!!可愛すぎてこれはリピート間違いなし。素敵なお話ありがとうございます。 -- 2014-03-15 (土) 14:36:49

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